猫に会いに
刈り取りが終わった田んぼの畦道で、茶色い猫が寝そべって喉を鳴らしていた。
西に落ちかけた太陽の日差しに毛皮を透明に輝かせ、カクテルグラスの欠片のような薄い舌で前足を舐めて、顔を猫に会いにぐるりぐるりと撫ぜていた。口元に微笑を浮かべているようにひげ袋を膨らませ、目を瞑って、満足そうに見えたが、日向で寛いでいる猫というのはそういうふうに見えるので、何を考えているのかよくわからなかった。
もともとは祖母の家で産まれた野良の子だった。野良の子だからヒトに懐かないよと言われたが、家に来るとすぐに家族に馴染んでくれた。
手のひらに載せると軽くてふわふわしていて、背中の毛色もスフレの焼き色のようだったので、私がスフレと名付けた。両親は、ひとりっ子の私に命名権を譲ってくれた。成猫になると、雄猫のせいか、予想外に大きく育った。
仔猫の頃は無償の愛に包まれた末っ子のように無邪気だった。実際に、家族は皆スフレが好きで、なにかと声をかけ、おやつをあげ、おもちゃで遊ばせて、特別扱いをしていた。とくに私はスフレを溺愛していた。
私はしゃがんだまま、スフレに話しかけた。
「ねえ、直樹なんだけど、もう全然家事やってくれなくなっちゃたんだよ。結婚する前は家事は半々ねって、自分から約束してくれたのに。そうは言っても家事の負担、私の方が多くなるだろうなとは覚悟してたつもりだったけど、一年たったらもう完全にやらなくなっちゃった。中身の残ったペットボトルもそのまま置いておくし、時間がなくて洗い物ができなくても、平気でシンクに山のように使った食器積み上げていくし、このあいだ日曜日に掃除機かけてたら、ソファから立ち上がる時、ちいさくだけど舌打ちしたんだよ」
スフレは無防備に前足後ろ足を開き、白いお腹を毛繕いした。まだ喉の奥で、ぐうぐうと耳障りのいい音をたてていた。
「それでね、私この前、職場で……」
私は小学校の教師をしている。三年生を担当している。
「給食の時、私の分だけ給食がなかったのよ。生徒だけで分けちゃって、私の分を残してくれなかったの。子どもに軽んじられてるってショックで泣いちゃって、職員室に戻って、生徒が謝りに来るの待ってたの。本当に許せなかったのよ。しばらくしたら、三人、生徒が来て。で、先生に対する思いやりがありませんでした、ごめんなさい、って謝られたんだけど、素直に頭下げられたらスイッチが入っちゃって」
スフレが細く目を開けた。
「その中の一人の子に怒鳴り散らしちゃったんだよね。男の子なんだけど、気弱で陰気でぼんやりしてて、そういう子っているでしょ、一定数。障害持ちみたいなの。自分を持ってない人間って、子どもでもイライラするでしょ? それで、気が付いたら昼休み中ずっと、我を忘れてその子を??りつけてたのよ。もう、止まらなくなって」
「その子、どうしてた?」
スフレは訊いた。私は記憶を辿ってみた。
「ただ茫然としてたみたい。その子が相手だと、布巾が水を吸い込むみたいに、次々と怒りの感情が言葉になって、いくらでも口から出ていくの。その子が誘引するみたいに」
「その子、怒鳴られ慣れてるのかもね」
「そうなのかな。気がついたら、職員室から先生たちいなくなってて、あの子のせいで、私、要注意人物だと思われたよ」
「誰の味方もできないな」
「その続きがあるんだよね。その日の朝、ホットクックにビーフシチューの食材入れて、晩ご飯に食べられるようにセットしておいたの。私が自分のお金でお取り寄せした、いい牛肉使って、家に帰って食べるのをずっと楽しみにしてたのよ。それで、残業して家に帰ったら、あるはずのビーフシチューが空になってたのよ。直樹が食べちゃったんだよ。きれいに全部なくなってたの」
スフレは私の前に座り、顔を上げて私の話を聞き始めた。
「それはひどいね」
「直樹に抗議したら、そんなもん、また作ればいいだろ、言っておくけどそんな美味くもなかったぞって吐き捨てて、スマホ見ながらどっか行っちゃった。私、こんなことばっかだと鬱になりそう」
「そうだね」
スフレは、ふむ、というように頷いた。それから続けた。
「だけど、一年前なら許せたんだよね」
私は溜息を押し殺した。
「そうなんだよね。その頃はまだ直樹が好きだったからね。直樹がビーフシチュー大好物なの知ってるし、美味しいお肉だったから全部食べちゃったんだなあって、むしろ微笑ましかったんじゃないかな。
だけどね、もう直樹が好きじゃないの。嫌いでも憎いでもなく、ただ直樹がそこにいても、いないみたいなの。何も感じないの。そうすると、仕事してふたり分の家事やって、なんでこんな苦労して生活維持していかなきゃならないのか、わからなくなるんだよね」
スフレは困ったように、
「栞、可哀そうだったね」
と、私を慰めようとした。
日はさらに傾き、空気は黄色がかってとろんとしていた。田んぼの先にひとかたまり生えているススキの綿毛が揺れ、冷たい風が頬に触れた。
「結婚したの、後悔してる?」
スフレは訊いた。私は首を振った。
「してない。直樹が好きだったから。でも、これから好きになることは、もうないんだろうな」
「離婚しちゃうとか?」
「それもねえ……離婚を決めるほどの決定打はないからね。でも、この先どうなるんだろうって」
「栞、もうね」スフレがぼそっと呟いた。「どんどんよくなるほっけのたいこ、だよ」
「それ、おばあちゃんがよく言ってた」
私は懐かしむ気力もなく、とうとう長い溜息をついてしまった。
「言ってごらんよ」
スフレが言った。私はやけくそで、
「どんどんよくなるほっけのたいこ」
と、感情を込めずに言葉だけ吐き出した。
「そうそう」
「そもそも、ほっけのたいこって何なの?」
私は虚ろに、どろりと笑った。
「太鼓をドンドンと鳴らしていくうちに、状況がどんどん良くなっていくってこと」
スフレは、私の膝に額を擦りつけた。
「人も時間も流れて変化していくんだよ。世界中の生き物がそうだよ。形が変わっていく時に、ここからどこかへ、上手くしがみつくんだよ。栞ならうまくやれるよ。形がまだ変わらないなら、今あるところに掴まって、変化する頃合いを待つしかない」
スフレは一生懸命に喋り始めた。お説教のようだったが、私を励ますつもりで話の筋道を探しているのはわかったので、私は地面に視線を落としたまま、黙って聞いていた。
「変化はゆっくりかもしれないし、急なことかもしれないけど、状況が動いていくのを見逃さないで。それから、必ずどこかに掴まって、生活を送れるようにして、心が毎日の生活から離れていかないようにして。何のために生きてるのかなんて虚しいこと、考えないでいいように。そうしないと、栞の人生が辛くなってしまうかもしれない」
そう私に言い聞かせた。つまり、今はあらゆる点で機が熟してないということなんだろう。
スフレはそう言うと黙り込み、夕映えが眩しいように目を細めた。
呆けたような、杏子色に染められた田畑の風景だった。空に鳥の姿はないし、自動車が遠くを走る音も聞こえてこなかった。どこにも動くもの、生きているものの気配がなかった。
スフレのすこし肉厚な耳を眺めていると、子どものころにそっと摘まんだ、フェルトのような感触が指に蘇った。また摘まんでみたい衝動を覚え、親指と人差し指をこっそり擦り合わせた。
私はスフレを見つめながら、スフレと共有する無言に浸っていた。スフレと私なのだから、昔から会話を強制される仲でもない。猫というのは常にヒトから注目される生き物だが、ストレスが溜まらないのだろうかと心配になる。しかし、つい目で追ってしまう。
じわりと私の精神の淀みや余裕のなさは霧散していった。汚れて重くなった運動靴から泥が洗い流され、温風で乾かされるように。たぶんそれは、スフレのふくふくとした体が、目にやさしかったからだ。スフレの薄目の茶トラの被毛が、周辺の空気を柔らかくしていたからだ。それは、ただ猫が近くいるからじゃなかった。どんな猫でもいいわけではない。
しばらくして、スフレは心を決めたように、よいっと二本足で立ち上がった。
「もうじき、帰らないとならないよ」
「帰りたくない」
私は体を固くして、眉間に皺を寄せた。
「だからさ、どんどんよくなるほっけのたいこって思ってさ」
スフレは私の手を握るように自分の手を重ね、私にも立つように促した。
「そればっかじゃない」
私はスフレを恨めしく見返した。
「だって、それしかないでしょ」
スフレはとぼけて、明後日の方に視線を向けた。
スフレの手は昔のようにふんわりしていて、ほんのり温かく、自分の存在を確認させるように、ちいさく尖った爪が手の甲に当たった。
「スフレが死んじゃった時は、目が溶けるほど泣いたよ。眠ったら、もう目が覚めなければいいのにってぐらい、悲しかった。あれからどれぐらいたつ? 十何年ぶり? 二十年ぐらい?」
「むかーし昔だよ。栞は子どもの頃は、もっと元気で楽しそうだったね」
「それなりにあったよ。メタメタに傷ついたり、答のないことを解決しようとして延々と悩んだり、家を破壊したいぐらい腹が立ったり。子どもの心って、意外と複雑なんだよ」
「うん。栞のことはよく知ってる」
私も腰を上げ、スフレの手をやんわりと手のひらで包んだ。スフレは可愛い手をぎゅっと握った。
「小さかった栞に幸せになってほしいだけ。それだけだよ」
スフレは私を見上げた。見開かれたガラスのドームのような目に、キウイの断面のような虹彩、クコの実の形の黒い瞳孔。何を考えているのかわかりづらい目をしているのに、その奥を覗くと、スフレが混じりけなく私の幸福を願っていることが汲み取れた。私は俯いたまま、
「今は、あんまり自信がないんだけどね」
と、小声でぽとりと応えた。
「たくさん時間はないけど、疲れて休みたくなったらまたおいでよ」
夕日が山並みの彼方へ沈もうとしていた。あと一時間もすれば墨を溶くように夜が忍び込み、お互いの表情も上手く読み取れなくなるだろう。
「日が沈む前に帰ろう。暗くて寒くなるとよけいに落ち込んで、栞はそのせいで怒りっぽくなるよ。だから、帰ろう」
私たちは、大人と子どものように手をつないで、枯れた雑草が踏み潰された畦道をあとにした。幼少期を共に過ごしたいとこ同士のようにも、ひとつの鞘で育った二粒のえんどう豆のようにも思えた。
飴細工のようなスフレのひげがキラキラしていた。口の端が、やはりすこし笑っているように見えた。
「ごめんね、栞」
「私も、ごめん」
手を繋いで歩きながら、名残惜しく振り返ると、冬枯れした田んぼのどこかに引っかかっているように、私たちの影が細く長く伸びていた。