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螺旋階段と三階の住人

 わたしの住んでいた〈アンジュウハイツ〉は、駅から徒歩十五分ほどの住宅地にあった。そこは、森閑といえるほど、住民の生活の気配が感じられない、穏やかな地域だった。
 〈アンジュウハイツ〉は、一般的なアパートというより、三階建の小さな一戸建て住宅を集合住宅にしてしまったような造りになっていた。一階ずつが一住戸になっていて、一階、二階、三階、と、全部で三住戸あり、わたしは真ん中の二階に住んでいた。
 八畳のワンルームに、シンプルなキッチンとユニットバスがあった。ロフトもあったが、収納スペースがないので、部屋の中に置ききれないものを雑然と押し込んでいて、あまり使い勝手のよくない物置になっていた。

 貴重な休日をつぶして、さまざまな条件のアパートを内覧してまわり、わたしが〈アンジュウハイツ〉の部屋を借りることに決めたのは、駅から遠いぶん家賃が安かったことと、両隣りに部屋がないことからだった。壁一枚隔ててすぐ他人がいる、という緊張感がなく、その点ではのびのびと暮らせそうだった。
 その前のアパートでは、つねに隣人の壁ドンに脅かされていた。
 テレビのボリュームが大きいとドンドンと叩かれ、夜遅く、ドライヤーを使うとドドドと叩かれた。ある日、ジャングルに棲む巨大な怪鳥の叫び声のような、派手なシャックリが止まらず、ヒーックヒーックとやっていたら、ドドドドドと、まるで和太鼓の乱れ打ちのように壁を叩かれ続けた。
 自分の意志では止めることのできないシャックリと、隣人が壁を殴打する音に焦りながら、半年も住まなかったが、ここでは心安らかに暮らせないと痛感した。

 それから、〈アンジュウハイツ〉に決めた大きなポイントは、ここの外階段は、アンティーク風の黒い細い鉄の柵がある、螺旋階段だということだった。オフホワイトとダークブラウンを基調にした外観に、その黒い螺旋階段はぴったりと似合っていた。
 実際住んでみると、忙しい朝など、螺旋階段というものはあまり機能的ではなかった。直線で降りられず、ヒールのある靴でくるくる回るのには慣れが必要だった。
 しかし、酔って帰った夜など、目をつぶって、埃や錆でざらざらする支柱につかまり、わざとゆっくり螺旋階段をあがって行った。そうすると、天と地が反転する眩暈を感じ、下降しながらも、逆に、階段を伝って夜空までのぼって行くような、矛盾が共存する夢の中にいるような錯覚を覚えた。
 わたしにとって、好きなものや面白いものは、あまり能率的でないほうがいいようだった。

 <アンジュウハイツ>に住み始めて一年経ったが、三階から物音がすることはなかった。何故か、ずっと空室のようだった。
 一階には、若い男性が住んでいた。ゴミ出しの時などに、ちらりと見かけることもあったが、お互いに会釈することもなかった。どういう仕事に就いているのか、学生なのか、ちょっと判断がつかない雰囲気の人だった。街中で見かけても、「あ、一階の人だ」とは、気づかなかったと思う。
 深夜になると、階下から、怪しい雰囲気のクラブミュージックのような音楽が、微かに聞こえた。

 わたしは前日から調子が悪かった。やたらと鼻水が出て、頭が朦朧とし、仕事がいつものように捗らなかった。
 熱中症だろうか、と思いながら、部屋に帰ってシャワーを浴びた。Tシャツとスウェットのパンツに着替えたが、さっぱりしつつも体の芯が火照っていた。
 体を冷やそうと、エアコンを二十二度設定にして、つけっぱなしのまま、布団にはいった。
 そして、朝になると、声が出なくなっていた。無理に声を出すと、砂にまぶされたような掠れた声が、息と一緒に喉からもれてきた。布団の中はじっとりと熱がこもっていて、汗をかいている体は熱いのだが、背筋に寒気がした。
 わたしは熱中症ではなく、夏風邪をひいてしまったのだった。
 熱でぼわんとする頭で、これでは出社してもしょうがないと判断し、水のように流れる洟をかみながら、会社に欠勤のメールを送った。同僚の美桜にも、
 <体調悪すぎて、今日、休む。本当に申し訳ないけど、仕事のフォロー、お願いします>
と、メッセージを送った。

 わたしは、エアコンを二十六度に設定しなおし、もう一枚、夏用の掛け布団をロフトからひっぱりだして、布団にくるまった。
 天井を眺めているうちに、いつのまにか眠ってしまった。日ごろの疲れも出たのか、昼過ぎまで、昏々と眠っていた。

 目を閉じたまま、最初は、近所の家が工事しているのかと思った。鉄やコンクリートが重機で叩き壊されるような音が響いていた。
 目を覚ますと、それは、喧しい音をたてて螺旋階段をのぼって行く、複数の人の足音だとわかった。
 ボリュームのあるドタドタとした音、ヒールを打ちつけるカンカンという音、遠慮もなく乱雑な足音をたてて、たくさんの人がつぎつぎと階段をのぼって行った。その人たちは、三階の部屋に流れ込んで行くようだった。
 天井から、何人いるのか見当もつかない人数の人たちが、足を踏み鳴らして歩き回っている音が響いていた。
 三階、誰か、住んでたの? わたしは驚いた。しかもこんな平日の昼間に、彼らは何をしているのだろう。事務所にでもなっているのだろうか。それとも、ホームパーティーかなにか?
 あれこれ憶測しようと試みたが、考えてみてもあくまでも想像でしかないので、虚しくなってやめた。
 わたしは溜息をついて天井をみつめた。もうすこし静かに歩いてくれないだろうか。ああ、そういえば、いつもわたしはこの時間はいないのだ。わたしが知らなかっただけで、三階は毎日こんなにうるさいのだろうか。
 しかも彼らは、靴を脱がず、土足のままのようだ。さまざまな種類の足音が複雑に入り乱れて、部屋の中を動き回っていた。なかなか収束しそうにない。
 すると、たくさんのガラス製品が一斉に壊れたような、派手な音が響いた。
 雪崩れるように慌てて走り回る、大勢の足音。天井が抜けるのではないかと心配になるほどだった。
 わたしはまた、溜息をついて、掛け布団に潜り込んだ。
 風邪をひいた時の独特の倦怠感が、体中に充満していた。頭がトロトロとし、不快ながらも体が軽くなり、それでいて床に沈み込むような眠気がさし、騒音の中、わたしはまた、うとうとと、眠りに引き摺り込まれていった。

 けたたましい、非常警報のベルのような音が鳴り響き、眠りの底にいたわたしは、その凄まじい音量に叩き起こされた。
 三秒ほどポカンと放心していたが、また、階上からの騒音であることがわかった。ベルの音に負けないほどの、たくさんの男女の笑い声があがった。
 わたしは掛け布団を頭からかぶった。しかし、薄い夏用の掛け布団には、まったく防音の効果はなかった。
 ベルは鳴り続け、笑い声も収まらなかった。
 まんじりともせず、天井を睨みながら、十分たったのか、二十分たったのか、わからない。枕元に置いておいたスマホの、着信音が鳴った。見ると、朝、メッセージを送った美桜からだった。
<今日、仕事早く終わりそうだから、帰りに寄るね。なにか必要な物、ある?>
という、面倒見のいい美桜らしいメッセージだった。
 わたしは、
<ありがとう。欲しい物はないけど、上の階、めちゃくちゃうるさい! 文句言いに行きたいから、一緒に来て! お願い!>
と、返信した。
 忌々しく、大騒ぎの天井を見上げて、
「あーほんと、ウルサイッ」
と、小声で悪態をついた。
 それを合図にしたように、三階の騒音が、突然、やんだ。
 わたしはドキリとして息を呑んだ。わたしの声が聞こえたのだろうか。そんなはずはない。わたしが発した声は、囁き声ほどの音量だ。
 沈黙が続いた。空気が薄くなっていくように感じた。
 わたしは鼻から、恐る恐る息を吸った。
 わたしが今日、ずっとこの部屋にいたことを、三階の人間たちに悟られてはいけない。もしもばれてしまったら、わたしの身に危険が及ぶ。何故だか、そんな得体のしれない恐怖がわいた。
 三階は静まりかえっていた。それだけでなく、部屋から人が出て行ったようすもないのに、煙が換気扇から抜けていったように、人の気配も感じられなくなっていた。
 わたしは指一本動かさず、布団に仰向けのなって浅く息をしていた。窓の外から、珍しくひとのはしゃいだ話し声が聞こえた。高齢の女性がふたり、感嘆詞と、ほんと暑いね……とか、うちの……は朝から……なのよ、とか、はっきりと言葉が聞き取れない、弾ける抑揚のついた声で立ち話を始めた。ばったりと、久々に知人と会った、という高めのテンションだった。いっとき発せられた驚きを含んだ声は、周囲を憚ってかすぐにトーンを潜め、すうっと消えた。遠くから蝉の鳴き声が聞こえているようだったが、緊張からくる耳の奥の空耳のようでもあった。
 わたしは平常心を取り戻すべく、ゆっくり呼吸をして、体の力を抜いた。
 そして、いつの間にか、また眠りにおちた。

 暗闇の中でインターフォンが鳴った。
 目を開けても、周囲は暗かった。
 二度目のインターフォンが鳴った。
 わたしの頭は、高速で回転した。
 布団から起き上がったところで、一日が終わってしまったことを理解した。立ち上がり、髪を手櫛で撫ぜながら、部屋の電気を点けた。明日からまた会社だ、と、思い、玄関のドアを開けるときに、三階からなんの気配もないことに気づいた。
 ドアチェーンをかけたままドアを開けると、ドアと壁の隙間から、美桜が顔を覗かせた。
「ごめん、もしかして、寝てた?」
「ううん、さっき、起きたとこ。布団、敷きっぱなしだけど、入って」
 わたしは美桜を部屋へ招き入れた。
「わざわざありがとう。もう、だいぶよくなったから、明日は会社行くつもり」
 美桜は床に敷いたラグに座り、エコバッグから美味しそうにつやつやしたパンを取り出して、テーブルに置いた。
「上がうるさいって、なにかあったの?」
「あ、うん、もう大丈夫」
「ふーん」
 美桜はそれほど詮索する気はないようだった。
「コーヒーいれるから、ちょっと待って」
 わたしは、グラスをふたつと、冷蔵庫から紙パックのコーヒーを出した。
「ごめんねー、わざわざ来てもらって。明日、ランチおごるから」
「わたしもこっち方面だから、いいんだけど。なにおごってくれるの?」
 わたしたちはパンを食べながら、お互いに次の長期休暇を利用するつもりでいる、東南アジア旅行の話をした。わたしは特にタイ、美桜はベトナムが好きで、まさか職場で、こんなに趣味の話が合う友人ができると思わなかった。
 小一時間ほどお喋りをして、美桜は帰って行った。

 美桜が、慣れない足取りで螺旋階段を降りて行く、カツン、カツン、と縺れるような、ヒールの音が聞こえていた。
 美桜のたてる金属的な音が消え、八畳の部屋にしじまが訪れた。耳栓でもしているような無音だった。

 三階には、もう誰もいないのだろうか。わたしが眠り込んでいるあいだに、あの正体不明の人たちは、全員、部屋から出ていったのだろうか。
もしかしたら、大勢の人間が息を殺して、この天井の上にじっと潜んでいるのではないか。もしかして、毎日毎晩、そうだったのではないか。
 そう思い至ると、背中から冷水を注ぎ込まれたかのように、ぞわぞわと鳥肌が立った。



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