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眉のしらが

 仕事帰りの電車に乗り、吊革につかまって前の座席に座っている人を見下ろしていたら、黒々とした眉毛から、太い白髪が一本、眉毛の生える方向に逆らって飛び出していることに気づいた。
 太目と筋肉質の中間のような、恰幅のいい四十代ぐらいの男の人で、百貨店で買ったようないいスーツを着ている。しかし、喉元のボタンをはずし、ネクタイを緩めていて、生活に倦んでいるというか、脂っぽくてだらしない。ガラの悪い街の不動産屋に十五年務めた男、という雰囲気を感じた。
 ごわごわした立派な眉に白いものを発見した時、糸埃が引っかかってるのかと思った。見てない振りをしながらもチラチラと凝視すると、それは確実に白髪であることがわかった。
 
 中学生時代の友人の横顔が、脳裏に蘇った。
 その子は若白髪で、体育の授業や、途中まで一緒に帰宅した際の日光の下で、時折白髪がキラリと光った。
 それは風で髪がなびいた時などに、光を反射して現れる白髪だったが、どんな環境でも見分けられる白髪があった。左側のこめかみから、何本か重なって筋になって伸びている白い髪があったのだ。
 
 セミロングの、特に特徴のない髪形だった。わたしが彼女の左側にいると、彼女に顔を向けた時に、切れ長の一重瞼が古風なお雛様のような横顔と、必ずその白髪を見ることになる。
 
 そのたびに、わたしはいささか悩むのだった。
 白髪のことを教えてあげたほうがいいんじゃないかと。
 わたしは彼女と親しいので、白髪があろうがなかろうが、それが彼女の本質ではないと知っているが、そうは思わない人もいるかもしれない。世の中にはいろいろな人がいる。
 白髪を切るように、とまで注意しなくても、もしかしたら本人は気づいてないかもしれないから、こめかみに白髪があることだけでも教えてあげたほうがいいのではないか。しかし、容貌のことについて口出しすること自体、おせっかいが過ぎるのではないだろうか。
 普通に会話をしながら、内心、そんなふうに逡巡していた。
 
 彼女とは、中学校を卒業したら、わたしたちの背中を押していた風の向きが、それぞれ違う方向に分岐してしまったように、自然と縁が切れてしまった。
 目の前に座っている男性の眉毛を眺めながら、やっぱり彼女には教えてあげたほうがよかったなあ、と、後悔した。たいしたことを言うわけでもないし。
「あ、そこ、白髪あるよ」とか、「あれ? それ白髪?」とか、さりげなく指摘してあげることはできたはずだ。
 そうしたら、彼女もこめかみの白髪を、根元からハサミで切ることができたのだ。
 
 などと、考えを巡らせていたら、電車が駅に近づき、減速して、ぐらっと停車した。
 眉から白髪が浮いている男性が立ち上がった。
 わたしは、
「あの、眉毛に白髪、生えてますよ」
と、声をかけてしまった。
(あ、しまった。言っちゃった)
 我に返るのとほぼ同時に、男の人が、
「知ってます」
と、さも不愉快そうにわたしを睨んだ。
 その人はむっつりと顔色を赤黒くして、肩を怒らせながら、乗降客が入り乱れるドアの方へと消えた。

 アパートに辿り着いて、手を洗いコンタクトレンズを外すために、洗面台に立った。
 使い捨てコンタクトレンズを眼球から剥がそうと、親指と人差し指で右目の瞼を押し広げながら、鏡を見つめた。
 至近距離で鏡に映るわたしの眉に、ナイロンの糸のようにごんぶとな白髪が生えていた。
 わたしは、さっき男の人から睨まれたように自分を睨み、
「知ってます」
と、憮然とした口調を真似をして、言ってみた。
 それから、中学生の時の友だちを思い出した。
「まあ、そうだよね。知ってるよね」
などと、すこし赤面しつつヘラヘラ呟きながら、綿棒などを入れておくプラスチックのかごから、毛抜きを探した。

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