夕涼み
新宿のゴールデン街の外側あたりを歩いていたら、気づくと目の前に知ってるような男女の後姿があった。幼馴染とその父親によく似ていた。
しかし、わたしが彼らを最後に見たのは、十五年ほど前にわたしが東京の大学に進学するために故郷を離れる時で、わたしの前を行く二人は、その十五年前の二人のような容姿と雰囲気だった。だから、別人だ。あの二人だったら、外見がそれなりに歳を経ていないとおかしい。
男性の方は、短くしているが柔らかい癖のある髪で、毛先がふわふわと踊っていた。しゃっきりと背筋が伸びていて、それほど背が高いわけでもないのに、なぜか長身という印象が残った。彼も痩せ型だが、女性はさらに痩せていて、ぽきっと手で折れそうに華奢な骨格をしていた。やせぎすともいえるが、体のシルエットがなだらかな曲線で、髪を襟足でシニヨンにしているのが、儚げでいかにも女性らしかった。
幼馴染は、名前をマリカといった。
彼女の母親は、早くに亡くなっていて、母親の死後、おじさんは自宅を改装して居酒屋を始めた。
働きながらマリカの面倒を見るためだったと思うが、もともとおじさんは、そのあたりでは高級な小料理屋で働いていたので、料理の味も接客も評判がよかった。
わたしが地元を発つ直前に見かけた彼らは、開店前の店の前で、おじさんは腕を組んで、マリカは腰に手を当て、真面目な表情で立ち話をしていた。それ以降、彼らの姿を目にしたことはない。
マリカとは、幼い頃、よく一緒に遊んだ。母親がいないことで、おじさんはマリカを不憫に思っていたのだろう。店の裏手になるマリカの家には、マリカの好きなお菓子や、新しい玩具など、常になにかしら彼女を喜ばせるものがあった。
夏には、道端に、空気を入れて膨らませたビニールプールを出して、水遊びをした。今思えば近所迷惑な話だが、わたしたちは叫びながら冷たい水を浴びせあった。プールからあがると、おじさんが、スイカやメロンを切って、わたしたちに食べさせてくれた。
マリカと絶交したのは、中学校を卒業する、すこし前だった。
マリカとショッピングモールへ行く約束をした放課後、彼女は数軒離れた家の男子とやって来た。リクという、高校一年の男子で、マリカとは、個人的に特に親しいというのではないが、気の置けないご近所さん、というゆるい繋がりだったようだ。
わたしとリクは、ふだん聴いている音楽が面白いぐらい一致して、わたしと彼は親しくなり、親しさが深くなり親密さになり、えええ? と思う間に、親密さが濃密な男女の関係にと変化していった。そういう年齢だったのだ。お互いに、初めての相手だった。
そのことを、わたしはマリカに打ち明けた。リクと合わせてくれてありがとう。マリカのお陰で、大好きな人に逢えた。そんなことを、わたしは無神経に言った。それから間も無く、彼女がわたしの彼氏を寝取るとは想像してなかった。
「だって、わたしのほうが先にリクと仲がよかったんだよ。わたしのほうが、ルリコよりリクのことを知ってる。ルリコがわたしを出し抜いてリクを盗ったんでしょ。付き合うとか、そんなの卑怯だよ!」
マリカは俯いて、わたしをナイフで切り裂くようなヒステリックな声で、わたしを責めた。そんなマリカを憎む気持ちと、マリカはたぶんリクが好きだったこと、わたしはそれに気づかないようにしていたことなど、醜悪な心のどす黒い嵐がわたしの体中に渦巻いていた。
しかし、鮮明に覚えているのは、マリカは長い髪を頭のてっぺんでお団子にしていて、そこから絹糸のような髪がほつれて、哀しくうなだれた、壊れそうにほっそりした首に、ゆらゆらまとわりついている様子だった。
陽が落ちて、薄暗くなってから、リクを彼の家の前に呼び出した。彼は周囲を気にしながら、わたしから視線を逸らして、「ごめん」とだけ言った。謝罪というよりは、面倒臭いことを回避したかっただけなのだと思う。そういうふうに、わたしは生まれて初めてできた、恋人みたいな男の人と別れた。
狭い町だったので、それからもマリカを見かけることはあったが、わたしも彼女も、お互いがそこに存在しないかのように、完全に無視し合った。
口さがない人が流す噂では、マリカは結婚と離婚を繰り返したらしい。四回結婚して、四回離婚した。
四回目の離婚のあと、おじさんは居酒屋を閉じてカフェに鞍替えし、マリカとおじさんとで営業を始めたようだった。
おじさんの居酒屋はお酒と料理を楽しむタイプの店だったが、お酒を出すからにはタチの悪い客がトラブルをおこすだろうし、生々しい人間関係が剥き出しになることも日常茶飯事だったろう。たぶん、おじさんは、マリカに下品で乱暴な酔客の相手をさせたり、彼女を世俗的な泥で汚したりしたくはなかったのだろう。それほど、おじさんは娘を可愛がっていた。マリカはすでに三十歳になっていたが。
そのカフェはあまり当たらなかったらしく、二、三年で閉店したようだった。わたしも実家から離れて長く、生活の拠点はとっくに東京に移っているし、現在の二人の消息はわからなかった。
わたしは一度結婚したが、ほどなくして配偶者からの暴力が始まり、短い結婚生活だったが、全力で振り切るように離婚した。幸か不幸か、こどもはいなかった。
離婚してからは、ほとんどの時間を一人で過ごした。一人で寝起きし、一人で食事をし、一人で働き、ほどほどにお金を使って生活していた。
男性と付き合うことがあっても、相手の本性を知るのが怖くて踏み込めなかった。知ってしまうと、わたしにとってのオバケや毛虫のような、受容できないものが現れるかもしれない。その時に逃げられない状況になっていたら、困るのだ。
気になる人との距離が縮まりそうになっても、日々の慌ただしさや変化についていくのが精いっぱいで、相手のことなどそうそう考えている余裕もなかった。ロウソクの小さな火のように芽生えた感情が、仕事や生活に追われているうちに、心許なく消えていった。まだまだこれから、という関係が、成長しないまま砂埃のように乾いて、たいした喪失感も伴わず散り散りになってしまう。そういった顛末は、わたしが深追いしないように慎重になりすぎたせいなのだからしかたない。
過去の出来事をつらつらと回想しながら歩いていたら、見知らぬ住宅地へ紛れ込んでしまった。
郷愁を誘う町並みで、まあ、そのうち大通りや駅にでるだろうと、妙に単純に考えて歩いて行った。歩を進めるごとに、自覚できないまま張り詰めていた心が、じんわりほどけていくようだった。
しばらく行くと、そこが未知の町ではないことに、ようやく気づいた。わたしは故郷にいた。かつて体に馴染むほど探索して回った、わたしがこどもだった頃の、懐かしい町並みだった。
わたしは立ち止まった。
「ルリコ!」
マリカの声が、背後から聞こえた。
振り返ると、ビニールプールに張った水に、全身が浸るようにうつぶせになって、顔だけもたげている幼いマリカがいた。あの小枝のようにほっそりした腕を挙げ、わたしに手招きをしていた。背中の真ん中まである髪が、濡れて肩にへばりついていた。
「早く来なよー」
屈託ない笑顔で、手を大きく振った。
わたしはマリカに歩み寄った。
わたしはビニールプールのそばにしゃがんだ。わたしは大人のままだ。おじさんの居酒屋がある。まだ暖簾がかけられてない。
引き戸がカラカラと開き、おじさんが顔を見せた。
「マリカ、ルリコちゃん、メロンあるから、あとで食べな。あんまり水に浸かりすぎて、体を冷やさないようにな」
と、声をかけて、また店に戻った。店の換気口からは、肉や野菜を煮る、なんともいい匂いがしていた。
わたしは、プールの縁を指で押し、空気で膨らんだビニールのプヨプヨした感触を確かめた。
「このプール、懐かしい」
わたしは呟いた。
「懐かしくて、泣けちゃう?」
マリカが、わたしをからかった。
「いろんな意味で、涙が出そう」
「あのこと、怒ってる?」
わたしの目を覗き込んだ。リクのことだろう。
「怒ってないよ。わたしこそ、マリカに謝らなきゃ」
「ルリコ、プールに入らないの?」
わたしは首を振った。
「わたしは無理みたい」
「そうなんだ」
マリカはあっさりと引き下がった。
「わたしたち、もう疲れちゃったんだよ」
唐突に、マリカが同意を求めてきた。
「そうだね……疲れてるかどうかもわからないぐらい、毎日が目まぐるしく過ぎていくよ」
「ねえ、こどもに戻りたい思う?」
マリカが訊いた。
「やり直したいと思う?」
プールの揺れる水面も、無邪気なマリカの笑顔も、キラキラ輝いていた。
「ううん、わたしはもうじゅうぶん生きたと思ってるから、もういい。あとは、安心して死ねる用意ができれば、上出来」
「わたしもよく生きた。だから、もう、人生終わってもいい」
マリカの瞳の深いところに、自分の人生の軌跡をすべて受け入れた諦念のような、淋しげな影がよぎった。
わたしたちの間を、そうっと、爽やかな涼風が吹き抜けた。秋の空気だった。わたしは、風の流れを目で追った。
夕空が赤く輝いていた。光る雲がドラマチックに棚引いていた。こどもだった昔、綺麗な夕焼けをたくさん見たな。いつから、夕日が空の色を変えていく美しさに鈍感になったんだろう。
わたしは目を瞑って、密やかに頬に触れる風の心地よさを感じていた。
目を覚ますと、すっかり夜が更けていた。わたしはアスファルトの上に横たわっていた。
上体を起こすと、すぐそばに、水が入ったままのビニールプールがあった。おじさんの居酒屋は、店先の暖簾がかけられないまま、店内は真っ暗で、荒れ果てた森の奥の洞窟のように人の気配がなかった。
当然のこととして、わたしは理解した。何か月前か、何年前からかはわからないが、あの二人は、もうすでに生きていないんだ、と。
あたりをよくよく眺めると、いつのまにかわたしたちの記憶の中の町は、舞台の場面が転換したように見知らぬ住宅街に変わっていた。
視線を戻すと、ビニールプールも居酒屋も、闇に溶けたように消えて無くなっていた。
ただ平凡な街路灯と、家々の窓からもれる光が、人通りのない道を親切そうに照らしていた。
(マリカ、お疲れさま。頑張ったんだね。わたしは、まだ、当分生きなきゃならないみたい。先は長そうだよ)
わたしは立ち上がり、服についた砂を払った。幸い、目立つような汚れはなかった。明日も会社へ出社するため、夜にしっかり眠るため、苦い想い出も真綿で包むように柔らかく胸にしまって、わたしは歩き出した。