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火炎アライグマ脱走

 スマホの画面に表示される時刻が0時を過ぎている。そろそろ行くかと、俺はリュックにペンチを忍ばせ、アパートを出る支度を始める。
 足の踏み場のない五帖のこの部屋。段ボール箱が壁際に積み上げられ、パイプ製のハンガーラックの上下には、一年分の衣類が崩れかけた状態でまとめて置いてある。敷きっぱなしの布団とテーブルがかろうじて生活を維持させているが、その周囲はゴミなのか生活用品なのか、分別することをとっくに放棄したものが溢れていて、床が見えない。たとえば埃をかぶった古いコンテナを開けると、ハンマーやドライバーや半田鏝に混ざって、丸めた針金や目的のわからない無数のケーブル、大小のネジや釘などが絡まり合って、収拾のつかない事態になっていることがある。それを見なかったことにして、そのまま蓋を閉じる。この部屋はそれと同じようなものだ。
 Tシャツにトランクスという姿の俺はジーンズを履く。Tシャツが少々汗臭いが、人に会いに行くわけではないのでかまわない。
 俺はアパートの階段下の駐輪所から自転車を引っ張り出し、サドルに跨って目的地へ向かう。
 住宅街から環状道路に出て、地鳴りのように走行音とエンジン音の轟く道路を真っ直ぐに自転車を走らせる。
 しばらくすると、業務スーパーに到着する。店はすでに閉店していて、シャッターが下りている。店の前のガードレールに寄せて自転車を停める。
 トッピングの少ないピザや安いカップ麺などを買いに、たまにこの業務スーパーを利用するのだが、用件があるのはこの店ではない。俺は極力無駄な動作を抑え、足音を立てないようにして、業務スーパーに隣接する一戸建ての家へ急ぐ。さりげなく周囲を見回し、誰もいないこと確認する。
 この辺りはいわゆる狭小住宅が多い。この家もそういった家の造りをしている。玄関脇にコンクリートで舗装した小さなスペースがあり、鉢植えの木や花が置かれている。そこに紛れて、DIYで雑に作られた檻がある。
 檻は、上下左右と奥が木の板で、全面だけ金網が貼ってある。サイズはアライグマ一匹分。アライグマが一か所で、ようやくぐるぐる回れるぐらいの大きさしかない。ドッグフードのようなエサこそ置かれているが、いつからなのかアライグマがロクに身動きもとれない檻に閉じ込められ、季節や天候などに配慮もされず、屋外に放置されていた。
 憶測だが、飼い主はアライグマがもっと人間にフレンドリーな動物だと思い込んでいて、安易に飼い始めてしまったのではないだろうか。アライグマは見た目は愛嬌があり可愛いが、だいたいが人間には懐かない。小型犬を相手にするように、アライグマと同じ感情を分かち合い、キャッキャと遊ぶことなどできない。おそらく、飼い主はそこに失望しうんざりして、飼育を放擲してしまったのではないか。
 俺が息を殺して檻に接近すると、毛並みの悪いアライグマは怒りで目をギラギラさせながら、金網にしがみつく。いつ様子を窺いに行っても、アライグマは憤怒に燃えるあまり正気を失っているように見えた。動ける余地のない金網の奥でせわしなく動こうとしては、俺を攻撃しようと試みるが、檻の中からは前足も伸ばせない。俺を鋭く伸びた爪で傷つけることもできないのだった。
 俺は急いでリュックからペンチを取り出し、素早く正確に、金網のワイヤーを切断していく。バチンバチンという音が鼓膜に響き、額から汗が流れてくる。一気にやり終えなくては、人に気づかれるリスクが高まる。半円形に、三分の二ほど金網を切ったところで、手前に金網を折り曲げる。この破れ目からアライグマは逃げられるだろうか。
 俺は檻から離れ、ただの通行人を装ってその場から移動し、反対側に並ぶ家と家との隙間に隠れる。十分不審者だ。
 アライグマは、しばらく網の穴に気がつかない。しかし、ひょいと鼻先を出してからいったん引っ込め、数秒おいてから顔を出し、すぐに状況を悟る。アライグマは破れた金網から悶えるようにずりずりと這い出して、もっさりした体がすべて抜けた出た瞬間、転げるように猛スピードで逃走する。
 あっというまにアライグマは暗い住宅街に消える。これで俺の目的は果たせたのだった。

 アパートに戻るために、環状道路を自転車でぶらぶら走っていて、途中に二十四時間営業の牛丼屋があったので入る。緊張から解放されたせいか、小腹が減っている。
 テーブルにつき、タブレットで並盛牛丼を注文する。
 ここ数年の懸案だった、アライグマの問題は片づいた。落ち着いて今後のことを考えなくてはならない。自分の仕事のことだ。俺は三十七歳だ。今度の秋に三十八になる。今登録している日雇い派遣の会社は、三十七歳いっぱいで契約が切れるのだ。
 この歳まで、職務経歴書に書けるような見栄えのいい仕事はしてこなかった。一番長いのが、今の倉庫の仕事なのだ。
 一日中、衣服や服飾品の入った段ボール箱を指示通りに運ぶだけの単純作業。派遣先で誰かと親しくなれば、自分の情けない身分を思い知らされるような気がしていたし、トラブルになるかもしれないという警戒心もあって、ほとんど誰とも口をきかない。なるべく印象に残らないように表情から感情を消し、遅すぎも早すぎもしない動作で、黙々と作業する。給料は最低賃金プラス五十円だが、交通費は自分持ちだった。
 スマホで「三十代 フリーター 転職」で検索する。転職エージェントのサイトの広告がトップにあがってくる。そんなものに相談できるわけがない。大学を経済的な事情で中退してから、正規雇用に就いたことがない。これという資格もスキルもなく、運転免許すら持ってない。転職エージェントなるもののドアを叩けば、どれだけ軽蔑され、冷遇されるか想像しかけただけで気分が滅入り、スマホをホーム画面に戻す。
 フォークリフトの免許ぐらい取っておけばよかったと後悔する。五、六万円で免許は習得できるはずだ。これから取るか。しかし来月はアパートの更新がある。家賃一ヵ月分が、その月の家賃に上乗せさせられるから、合計十万六千円の出費になる。しかもどこにあるかわからないフォークリフトの教習所に、バイトを休んで、交通費を出して、数日通わなければならない。今すぐに仕事を探し始めても、次の仕事が決まるまで、どれだけ収入のない日が続くかもわからない。銀行預金は三十万もない。さらに生活費を切り詰めないと、家賃や携帯代が払えなくなるかもしれない。
 そう考えると、恐怖心がザワザワと背筋を這い上がってくる。髪を掻き毟りたくなる。こんな状況は初めてではない。またかと忌々しくなるが、慣れるということはない。
 結婚したい、と、思う。
 俺がもっとまともに働いていて、もっと広いアパートに住んでいて、帰ったら「おそいよー、どこ行ってたの?」とか言いながら、パジャマの嫁さんが玄関に迎え出てくれる。部屋には電気が点いていて、こざっぱりと整えられていて、温かいご飯とハンバーグかなにかがフライパンに作ってあって……と、妄想していると、中学時代に好きだった山根さんを思い出した。「たおやか」という言葉がぴったりな細い体と女性らしい動作をする人で、背中の真ん中まである髪をひとつに結わえ、制服の白シャツが、なぜかいつも新品のように特に白く見えた。山根さんのシャツに比べると、他の女子の白シャツは、粗末にヨレているように感じた。偶然、至近距離にいたときに、こっそり観察すると、顔が小さくて見惚れるほど睫毛が長く、聡明で屈託のないまなざしを友人たちに向けていた。誰の、なんの話をしていたのか、「じゃあ、私、駐輪所で待ってるからさ」と、彼女の弾けた声があがると、その言葉に触発され、友人たちがわっと湧きたった。いつも女子の仲間と行動していたが、男子と話すことがあっても、媚びもしないし不器用でもない自然な口調で、喋り、笑った。
 山根さんはとっくに結婚してるんだろうな。たぶん、子どもも好きなんだろう。良い妻、良い母になっているんだろう。俺には手が届かない。俺の人生、なかったことにならないか。俺自身が存在しなかったことにならないか。思考が精神の闇を彷徨い始めた頃合いに、牛丼がやってくる。

 牛丼屋から出ると、サイレンが間近で鳴っている。本能的に危機感を煽られる。すぐに、赤く頑強な消防車が二台、けたたましい音と警光灯の激しい光を放散させながら、環状道路を駆け抜けていく。消防車が去って行った方向を眺め、もしかして、アライグマのいた家かと直感し、再度自転車のペダルを漕ぎ、あの場所へ引き返す。
 まさにアライグマのいた家から、どす黒い煙が上がっている。内部に火が回っているらしく、二階、三階のガラスの割れた窓から炎が噴き出している。
 停車している消防車から、銀のヘルメットに防火服を身に着けた消防士がホースを伸ばし、家に向けて放水を始めている。三々五々集まった野次馬は、冷淡なまでに他人事なようすでそれを眺めている。
 この家の住人はどこにいるのだろう。路上にそれらしい人の姿はない。家の中に救急隊員が救助に入っているのだろうか。だいたい、この家には何人の家族が住んでいるのか。今どのあたりにいて、無事な状態なのだろうか。
 炎も煙も増していくばかりの家を、自転車を支えながら見上げていたが、突然不安になる。俺がさっき、玄関先にうずくまってなにやらやっていたのを、目撃した人間がこの場にいるかもしれない。放火を疑われるなどと厄介な事態を避けるため、速やかに立ち去ることにする。
 サドルに跨り、自転車の向きを変えようとするそのとき、消防車の陰から、ととと……と、タヌキのような動物が現れる。ずんぐりした毛深い体躯、尾に縞がある。アライグマだ。アライグマは、ちらちらと俺を気にしながら小走りしていく。すこし走っては立ち止まり、なにか告げたそうにしてこちらを振り返る。
 これはあれだ。アニメやマンガでは、後をつけてこいという合図だ。俺がそう察するやいなや、アライグマはダッシュで走り出す。俺は足に力を込めて猛然とペダルを漕ぎ、暗闇に紛れていくアライグマを追いかける。
 アライグマは薄暗い街灯の点った街を、右へ左へと俊敏に曲がって駆けて行く。
 弾丸のように走りながら、アライグマはシャボン玉が膨らむように、ゆらゆら揺れて大きくなっていく。形の定まらないシルエットが、縦に細長くなり、ヒトの形の輪郭になる。
 夜目にも白い、夏の制服のシャツ。控えめに短くしたスカート。逃げる小鹿のような瞬発力のある後ろ姿に、ひとつに結わえた長い髪が大きく跳ねる。
 あれは山根さんだろうか。なぜアライグマが山根さんに変化するのか。
 山根さんはスピードを落とさず、どんどん先へ行く。俺は必至で追いかける。
 アライグマでも山根さんでもいい。今日こそ俺は彼女をつかまえる。彼女に追いついたら、人生を変えられるんじゃないか。理屈の合わない一縷の望みが芽生える。これが最後のチャンスであるかのように急き立てられる。彼女をとらえることができれば、俺でも「しあわせな人生」という陽の当たる表通りを堂々と歩くことができるんじゃないか。
 俺は彼女を遮二無二追いかける。息が苦しく、足が疲れて思うように回らなくなってくる。
 速度を緩めることなく俺の前を駆けて行く彼女が、唐突に立ち止まる。
 そして、柳の枝が夜風になびくように、ふわりとこちらに向き直る。
 天空の月のように、そこにだけスポットライトが当たっているように、山根さんの全身が隅々まで浮かび上がる。
 なめらかな肌の華奢な手足に、両手で締めつけたくなる細いウエスト、中学生のままの、透明な果汁に満ちた果物のような瑞々しさ。喉元のえんじ色のリボンに、ぐっと胸が押し潰されそうな懐かしさを覚える。そうだった。女子はみんな、えんじ色のリボンをつけていたんだ。校舎の中の映像がフラッシュバックする。顔のわからない、同じ制服を着て集まり歩く生徒たち。水族館で回遊する魚のように、教室や廊下を行き交う無数のえんじ色のリボン。たくさんの声が微かに聞こえてくる。その中から、「私、駐輪場で待ってるから」という山根さんの声が、閃光のように鼓膜の奥に響く。俺は頷く。わかった、俺も今すぐに行く。真摯で柔らかい視線で、真っ直ぐに俺をとらえる彼女の瞳に、一瞬で到達する。
 俺は急ブレーキをかける。しかし、ブレーキがきかない。俺の喉の奥から悲鳴のような声があがる。俺は自転車ごと、彼女に突っ込んでいく。
 
 赤く明るく燃え盛る街が、見える。遠くでサイレンが唸り、ところどころから爆発音も聞こえてくる。かなりの距離のあるここまで、科学物質が焼かれる匂いが漂ってくる。
 俺は広い河川の土手の上を、自転車で走っている。腰に回されているのは、山根さんの腕だ。自転車の後ろに山根さんが乗っている。
 俺が住んでいた街全体が炎に覆われている。俺が毎日、地を這うように寝起きしていた、窮屈なアパートの部屋も、部屋に残してきた大切なものも、アライグマを檻に閉じ込めて、見て見ぬふりをしていた家も、すべてが燃え崩れていく。
 俺は川上に進路をとっている。向かい風が吹いているので、火災の勢いは俺が進む方角とは反対方面へ拡がっていくだろう。
「山根さんは、ほんとはアライグマなんだよね?」
 声をかけると、彼女は腕をぎゅっと締めて、俺の背中に額を擦りつける。「違う」ということだろうか。
「じゃあ、山根さんがアライグマになって、檻に押し込められてたの? それで、檻から解放されたから人間に戻ったの?」
 少し意地悪く訊くと、彼女はぼすぼすと頭を背中にぶつける。
「まあ、いいや。今は山根さんだと思っておく。そのほうが気分が良いし。それで、これからどこに行く? 山根さんの好きなところに連れて行くから」 
 自分の人生に決着がついたかのような開放感に浸りながら、荷台に山根さんを乗せ、火柱が跳梁し黒煙が渦巻く街を横目に、俺は川を遡って行く。街を覆う、業火のような炎は永遠に鎮火しない。周辺の建物も徐々に延焼してゆき、火災はさらに大規模になっていくのだ。
「世界の終わりが始まったんだな。俺も誰もかれも、これですべてとさよならだ。山根さんも、それでいいんだろ?」
 そう言い放つ自分の無責任さが愉快で、俺は乾いた笑い声をあげる。すると、背中にくっつけた体を震わせて、山根さんも愉しそうに笑う。朗らかで澄んだ、カーテンが空気で膨らむような声だ。不協和音のように笑い声がかさなる。得体のしれない幸福感に満たされ、脳が痺れる。
「最後に笑うのは俺たちみたいだね。それじゃさあ、このまま二人で夜明けの海でも見に行こうか? ロマンチックでいいよねえ」
 俺は酒に酔ったように駄弁を弄した。そう言いつつも、言葉通りに海へは向かわず、どこを目指しているのか、どんな場所に辿り着くのかもわからないまま、俺は未知なるなにかに呼ばれているように、ひたすら川上へと自転車を走らせて行く。

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