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悩み好転!『禅語の智慧』の物語 No.16

【夫婦編】



                           2023年11月27日(月)

悩み事:趣味による自己発見


     目次
1、あらすじ
2、禅  語:「百尺竿頭」(ひゃくせきかんとう)の解説
   題  名:共に走る道
1、第一章: 不協和音の日々
2、第二章: 古い習慣、新しい挑戦
3、第三章: コミュニケーションの再発見
4、第四章: 共通の趣味への道
5、第五章: 夕飯の会への道
6、第六章: 夕飯の会と新たな一歩
7、まとめ
8、ごあいさつ
*新コーナー* 柔海 剛山(じゅうかいごうざん)の『禅語の俳句』

1、あらすじ
晩年の夫婦、学と恵子は、退職後の生活の変化に苦慮していました。学は金継ぎの技術を学び始め、恵子はマラソン教室に参加し、それぞれが新たな挑戦に取り組みます。この過程で、お互いの新たな側面を発見し、夫婦間のコミュニケーションと理解が深まります。共通の趣味であるマラソンを通じて、彼らは人生の新たな高みを目指し、夫婦としての絆を再構築していく物語です。

2、禅語の「百尺竿頭」(ひゃくせきかんとう)の解説
「百尺の竿の頂上」という意味を持ちます。この禅語は、禅の修行において非常に高い段階に達したが、さらなる進歩や飛躍が必要である状況を象徴しています。文字通りには、非常に高い位置に立っているが、まだ前に進む必要があるという状態を示しています。

この表現は、禅宗の修行者が経験する精神的な道程を象徴しており、物事の究極的な理解や悟りに近づいているが、まだ最終的な目標には至っていないことを示唆しています。禅宗では、常に自己を超える努力が求められ、どんなに高いレベルに達しても、さらなる自己の深化と発展が可能であるとされます。

この禅語は、人生においても応用され、自己の成長や発展は絶え間ないものであり、常に次のステップへの挑戦が必要であることを教えてくれます。人はどんなに成果を上げたとしても、常に新たな目標や課題に取り組むことで、さらなる成長が可能であるという意味を含んでいます。

題名:共に走る道

1、第一章: 不協和音の日々
晩年を迎え、共に過ごす時間が増えた学と恵子は、退職後の生活の変化に苦慮していました。学はかつての職場での活動がなくなり、家にいる時間が増えるにつれ、恵子の日常に頻繁に口出しをするようになりました。これが原因で、些細なことからの言い争いが頻発し、二人の関係には緊張が生じ始めていました。彼らの関係は、まるで「百尺竿頭」(ひゃくせきかんとう)に立たされたような、新たな成長を求められる試練の時を迎えていました。

2、第二章: 古い習慣、新しい挑戦
ある日、友人からの提案を受けて、学は金継ぎの技術を学ぶことを決意しました。この新しい趣味は彼にとって、自己成長の機会であり、「百尺竿頭」(ひゃくせきかんとう)の精神を体現する挑戦となりました。一方で恵子も、自らの限界に挑むために地元のマラソン教室に参加しました。この教室は、彼女に新たな達成感をもたらし、生活に活力を注入しました。

3、第三章: コミュニケーションの再発見
金継ぎとマラソンに没頭する中で、学と恵子は、互いに対する新たな理解と尊敬の念を育て始めました。彼らは夜ごとにその日の出来事を共有し、互いの趣味について学ぶようになりました。このプロセスは、彼らの関係を「百尺竿頭」(ひゃくせきかんとう)から一歩進め、新たな道を開拓するきっかけとなりました。

4、第四章: 共通の趣味への道
学が恵子のマラソンに興味を持ち始め、二人は一緒にトレーニングを始めました。彼らはまず散歩から始め、次第に距離を伸ばし、フルマラソンに挑戦する目標を立てました。走ることは、彼らの関係に新たな次元をもたらし、「百尺竿頭」(ひゃくせきかんとう)に立つ勇気を与えました。

5、第五章: 夕飯の会への道
共通の趣味を通じて、二人の間には新たな絆が生まれました。地域の夕飯の会に招待されたとき、二人は一緒に出席することを決め、久しぶりの公の場でのデートに心躍らせました。この夕飯の会への参加は、彼らにとって「百尺竿頭」(ひゃくせきかんとう)の精神で新たな社交の場に挑む機会でした。

6、第六章: 夕飯の会と新たな一歩
夕飯の会での交流は、学と恵子にとって新たな経験となりました。彼らは他のカップルと交流し、新しい友人を作ることができました。家に帰る道で、二人はお互いの存在の大切さを再確認し、これからも共に成長し続けることを誓いました。彼らの関係は、まるで「百尺竿頭」(ひゃくせきかんとう)の精神を体現するかのように、常に新たな高みを目指していました。

7、まとめ
学と恵子の物語は、退職後の生活変化に直面し、新たな挑戦を通じて夫婦関係を再構築する旅路を描いています。金継ぎとマラソンという共通の趣味が、彼らの絆を深め、互いの理解を促進しました。この物語は、人生のどの段階においても成長の機会があり、変化を受け入れ、共に新しい道を歩むことの重要性を教えてくれます。学と恵子のように、私たちも「百尺竿頭」の精神で、常に新たな高みを目指すことができるのです。

8、ごあいさつ
この度は「百尺竿頭」をテーマにした学と恵子の物語をお読みいただき、心より感謝申し上げます。夫婦が退職後の新たな挑戦を通じて絆を再構築する旅路を通して、どんな人生の段階にも成長と変化の機会があることをお伝えしたかったのです。この物語が皆様の心に何かを残し、人生の旅路において少しでもインスピレーションを与えられれば幸いです。

*新コーナー*
柔海 剛山(じゅうかいごうざん)の『禅語の俳句』
禅語のお題: 「百尺竿頭」(ひゃくせきかんとう)

高き竿、頂を超えて雲を渡る

「高き竿、頂を超えて雲を渡る」の俳句の解説
「高き竿、頂を超えて雲を渡る」という俳句は、「百尺竿頭」の禅語を象徴的に表現しています。

「高き竿」: これは「百尺竿頭」の直接的な言及であり、人生や禅の修行における高い段階、すなわち達成や進歩の象徴です。ここでは、人が到達することのできる高みを表しています。

「頂を超えて」: このフレーズは、さらなる成長や進化の過程を示唆しています。すでに高い位置に達しているが、それを超えてさらに上を目指すという意志を表しています。この部分は、自己超越の精神や、絶え間ない努力の必要性を象徴しています。

「雲を渡る」: この部分は、達成や進歩によって新しい領域、未知の世界へと進む様子を描いています。雲を渡るという表現は、文字通りには空中を移動することを意味しますが、ここでは比喩的に、新しい境地や次のステージへの移行を暗示しています。
全体として、この俳句は、「百尺竿頭」の禅語の精神を詩的に表現しています。それは、既に高いレベルに達しているが、常にさらに高い目標を目指し、未知の領域への挑戦を続けるという、禅の修行における永遠の旅を象徴しています。

ご一読いただき、誠にありがとうございました。
                           2023年11月27日(月)
                              柔海 剛山 拝
【追記】
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多様な文献や資料、そしてインターネット上の情報源を参考にして、可能な限り柔軟かつ包括的な観点から、情報を物語化して提供することを目的としています。

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