どうにか相手を正してやりたいと思った時ほど口を閉じるようにする。 すでに感情が走りかけている証拠であり、 たった一言、踏み出すだけで坂を転がるように感情が走り出してしまうから。
自分の意志をコントロールしている実感がある時、穏やかさがさらに増すことに気づく。 冷静かつ客観的に考えられるため、ことがうまく運ぶ可能性も上がる。 自分にとって大事なものの場合、負荷に負けることもあるだろう。 だが、そうやって心の筋肉たる意志が強くなるのだ。 好ましくないことはいくらでも起きる。 そのすべてを使って意志を鍛えることができたら、お前の人間の部分はより完成に近づくはずだ。
「行き」と「戻り」という概念。 コントロール権内に意識を向けて心の平静をキープすることは大事。 だが、物事に対して感情が揺れるのも然り。 感情とは動機づけの信号であり、必ず行動をともなう。 当然、外的なものを気にせざるを得ないが、それは何か行動を起こすべき行きの状態だからだ。 やることをやったら平静の方に戻る. 最善を尽くしても思い通り事が運ぶわけではない。 結果は割り切って、心の平静に戻ってくること。 行きか戻りかでやるべきことはまったく変わってくる。
捻挫しないためには周辺の筋肉を鍛えるしかない。 だがそれは、捻挫が治ってからやることだ。 それと同じで感情的にならないためには意志の力を鍛える必要がある。 だがそれは、感情が収まっている時にすることであり、 「今じゃないね」という人は少なくない。
人間関係や意思疎通で大事なのは、相手の振る舞いがどうあれ、こちらにできることを愚直にやり続けることだ。 相手が変わろうが変わるまいが、そこはあまり関係ない。 それはお前のものではないからだ。 できるのはきっかけを与えるところまで。 そこから先、どうするかはその人に任せるしかない。
「よいと思うもの」が得られても度を越えて喜ばない。 なぜならそれは善ではないからだ。 善にも悪にもなりうるものであり、それによって不自然な衝動を抱いたとしたら、それは紛れもなく悪である。 同じように、「悪いと思うもの」と遭遇しても必要以上に悲しまない。 善の場合と同じように、それは悪ではないからだ。 善でも悪でもないものを使って美徳を発揮した。 だとすれば、それは紛れもなく善いことだ.
「よいと思うもの」に向かうのを否定する必要はない。 ただ「走るな」といっているだけだ。 衝動に任せて勢いよく走ると、適した場所で止まることができない。 共通の自然に対して人間の自然を適合させる。 外的なものに対する欲求に注意しながら、内的なものへの欲求を絶やさない。 食欲でいえば、これまでは「食べたい」という欲求を走らせていたのだろう。 食べ物に向かう気持ちを否定する必要はないが、もっとゆっくり、ということだ。
あらゆる衝動について言えること、勢いを落とすことは大事である。 提要2番にあるように絶対にこれがしたい、絶対にこれは嫌だ、といった強い感情に走らないようにする。 さもなくば、衝動が意志の制御を離れて暴走してしまうだろう。 基本的欲求から金銭や地位などに対する社会的欲求まで。 「外的な好ましいもの」に対する方向性だけではなく、その強さにも注意する。
他人に理解されるかどうか?はお前のものではない。 そのための努力をし、結果は他人事として割り切ること。 いつも自分で言っているではないか。 知って行わざるは知らざるに同じ。 他人の理解を気に掛ける前に、お前自身が真に理解することを気に掛ける。
「衰退していく日本がもう一度豊かになる方法はあるのか?」という雑誌か何かのタイトルを見て思った。 議論の前に豊かさとは何なのか?定義を見直し、指標を設ける必要があるだろう. 今まで通り、物質的なものだけの指標に頼るなら、今後も後退することになる。
説明に固執してしまうのだとすれば、それは、お前自身の自然な振る舞いによってそれを示せていないからだ。 言葉は標識、矢印に過ぎない。 言葉が指しているものを見失わないように。
人間の社会は外的な善悪、損害をめぐって競い合うゲーム。 どうすればこのゲームに勝てるのか? ではなく、どうすればこのゲームを抜け出せるか?を考える。 外的な善悪、損得を巡るゲームは、勝っても負けても心の平静が損なわれる。 遊びと割り切って、あまり付き合わないこと。 楽しめなくなったらゲームは終わりだ。
お前の目には表面的なものしか見えないのか? そんなはずはない。 果実は見えやすくて華やかだが、それを生み出した種や根っこの存在を忘れてはならない。 結果、つまり果実が結ばれるかどうかはお前が決めることではない。
「なるようになる」は自然選択との整合性に戻るための言葉。 例えば、一般的に進化というと「進化した」と自動詞の形を取るが、個体の意志で進化した生物などありえない。 実際は「生存と繁殖に有利な形質が結果的に遺伝された」のであり、そこに生物の意志は介在しない。 結局、なるようになっただけなのだ。 我々は自然の一部、構成要素に過ぎない。 何かを成そうとするの必要はなく、与えられた役割を為していれば、 成るべきことが自然と成るのだ。
なぜ伝わらないのか? なぜ理解できないのか?答えはシンプル、お前の伝え方に不足があるからだ。 そしてそれは単純に理解不足から来るものである。 実践を続けて、ひたすら理解を深めること。 それを他人に伝えよあとする過程でより理解は深まる。 まだまだ、こん程度の理解で満足してはならない。
アダム・スミスの道徳感情論。 たいていの人は富や地位の幻想に囚われて「財産への道」を歩む。 それによって社会全体の富は増大し、より多くの人の間に生活必需品が分配される。 その構図は今も同じだが、当時との違いは生活必需品の供給が飽和していること。 これ以上、物理的な繁栄は期待できない。 「富や地位」によって得られる感嘆や尊敬にも限界がある。 ではどうやって他者の同感を得るか? 「徳への道」を歩むことで「英知や徳」を身につける以外、選択肢はない。 弱さによる繁栄が