「おりました」宣言の公的(私的)記録
変わらなくてもいい生活。
新型コロナウイルスで世界中が混乱している現在も、2011年の東日本大震災のときでさえ、
祖父母の生活は何ひとつ変わらない。
自ら育てた米や野菜を食べ、川から水をひき、冬は薪で暖をとる。
電気はあるけれど、なくてもたぶん大丈夫。
不便ではあるだろうけれど、右往左往するほどではない。
「ほんのちょっと前まではこんなもんだった」なんて言うかもしれない。
私もそこに着地したい。
「変わらなくてもいい生活」に着地したい。
だから、する。そう決めた。
宣言は立派だが、具体的にはかっこいいことなど何もしてない。
いきなり何か始めているわけでもない。
例えば土地を買って畑を開墾し出したとか。
それどころか現実はもっと、憧れを引き寄せるには程遠い。
これまで置き去りにしてきた〈生活〉の時間、
その大切さや豊かさを私の心に1から育むところから始めている。
道のりは遠い。
これは、「変わらなくてもいい生活」を叶えるための、心の機微の記録である。
ウソをつかずにいこうと思う。
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変わらなくてもいい生活。
それって、バラエティー番組でよく見かける人生の折れ線グラフで表現したら、平坦グラフでしかないかもしれない。
平坦グラフ。
今までの私だったら、そうはなりたくない!がモチベーションの一つだったとここに白状しておく。
「人生は、絶えず上へあがるべきものだ」という思い込み。
折れ線グラフは、右肩上がりでなければならない。
その方が成功者のように見えるから。
間違いではないだろうけれど、他の選択肢もあるのだと気が付けたのは、
コロナの自粛のおかげであったと今や言い切りたい。
不謹慎かもしれないが。
小さい頃から刷り込まれてきた向上心がいつの間にか無意識のイデオロギーとなって私の人生観をすっかり支配していた。
比較されるのなら、勝ちたい。
評価されるのなら、評価されたい。できれば飛びぬけて。
選択されるのなら、選ばれたい。
そのくせ、集団行動が好きではないからとそれらしい就職はせず、我で攻めようとするから質が悪い。
だけれど、自分で選んだからには仕方ない。
息継ぎなど二の次にして、毎回現れる次のゴールに向けて一心に突き進んできたのだ。
おかげで自己肯定は育ったけれど、
常に自分を信じて肯定し続けること、そして同時に他者からの肯定も得たいと躍起になること。
「上へあがる」ための自分の心のルーティンにも、気付けば少し息切れもしていた。
そんな自分の「当たり前」をようやく俯瞰することができたのは、コロナによる自粛のおかげだった。
そう。
私は「おりよう」と思ったのだ。
知らぬ間に乗っていたすべての評価基準、ムーブメント、価値観からおりようと。
決定的だったのは、祖母のあの一言だった。
「自分たちが食べられる分だけあれば生きンだ」
時代のうねり、価値観の大小に振り回されることなく、
地面にしっかと根をおろしてきたひとの言葉だった。
ああ、何て羨ましい。
私のそれまでの考えが、根幹から揺すぶられる。
右肩上がりの折れ線グラフもいいけれど、
それって本当は見栄とか虚栄心を満足させるために欲しがってただけなのでは?
自分の時間を自分のために豊かにすることと、
漠然とした承認欲求は全く以て別物である。
私が本当に求めるものって何だったんだろう。
よくよく考えてみた。
私の心の幸せについて。
拘泥しているすべてのことから「おりて」、
私が私らしく在れる着地点について。
そしたら、私の眼差しは自分でも意外だったが「生活」に向けられた。
日々の根っこの生活。
植物と本と犬と、
ことばを生みそだてる時間。
それだけがあれば、私の生活は満ちる。
食べ物は、植物から得ればいい。野菜は大好物だ。
もちろんお肉や魚は食べたくなるだろうから、多少の買い出しは許してほしい。
情報だって、それほど過多にはいらない。
よく考えたら最速でなくたっていい。
お気に入りの雑誌やラジオのニュースとかでいい。
犬がいて、猫がいて、そばに愛する人もいる。
それでいいのではなかろうか。
こう書き出してみたら、
ちょっと昔に戻っただけの「ありふれた」生活に思えてきた。
私の両親のこども時代とあまり変わりなさそうだ。
いや、もう少し、祖父母の青春・朱夏あたりまでさかのぼるくらいだろうか。
未だかつてない「新しさ」が到来するなか、
昔の生活に戻ろうとするなんて、もしかして「退行」と呼ばれたりもするのだろうか。
けれど、何百年と継がれてきた生活の在り方は
何があろうと強いに決まってる。
私も、その強さを身につけたい。
私の人生の折れ線グラフは
急上昇も急降下もなくてよい。
(と言いながら本当はまだ慣れなくてドキドキしている)
「変わらなくてもいい生活」
この言葉に、いろんな未来を重ねている。