自分たちが食べられる分だけあれば生きンだ
「自分たちが食べられる分だけあれば生きンだ」
代々お米をつくってきた祖母のこの一言にすっかり心を奪われてしまった。
そんなことが言える祖母はだれよりも無敵だ。本当にうらやましくて、私もこう在りたいと思ってしまった。
これが強さだ、と。
コロナウイルスであっても、3.11のときでさえも、
祖父母の生活は何ひとつ変わらなかった。
米や野菜を自ら育て、川から水をひき、冬は薪で暖をとる。
さらに言えば、祖父は元大工であったので、自分の家も木から選んで自分でたてた。さらに無敵。
尊敬すべき、「ふつう」のじいちゃんとばあちゃんだ。
私も「変わらなくてもいい生活」がしたい。
これは、「変わらなくてもいい生活」を叶えるまでの私の日々の記録だ。
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変わらなくてもいい生活?
そうは言っても、この3ヶ月弱で私たちの生活はずいぶん変わった。
変わらなざるを得なかった。おかげでさんざん振り回された。
もちろん私もその一人で、飛躍の年を掲げた2020年は事業を立ち上げた勢いそのままに気持ちよく駆け抜ける予定だったのだ。
ところが実際には駆け出せなかった。
私が立ち上げようとした事業(※正確には立ち上げたが今は「生活重視」のため、最大値で減速中。)は、「集まり」を前提とした事業なので、三密という言葉が明示された時点でしばらく動けないことを理解し、そして、茫然とした。
ホームページも制作し、絵本も出版、事業PR用の準備もしていたのである。が、それからあとは何もできなかった。何をしてもうまくいかなそうな気がしたし、明晰に動けている方々はそれなりの準備と実績があったのだと思えば、お手上げだと思った。せいぜいできたことと言えば、こういった渦中でも動けた人と動けない人の分析を真面目に(時に不貞腐れながら)してみたり、様子を窺いつつそこに弱みのようなものを見つけては「自分もまだいける。自分はまだこの路線でならいける」と空しく鼓舞する。けれどもそれも結局焦りを助長するばかりだった。そしてそのうち、途方にくれる自分にさえ慣れてきて、あとはただただぼやぼやと過ごしてしまった。
要するに、すっかり参ってしまったのだ。
だから、気晴らしをしたくて祖父母の家に車を走らせたのである。
あわよくば、大型犬の相棒をこころおきなく、気持ちよく田畑の中を走らせることができたらという下心つきで。
祖父母はその日もいつもどおり、私を快く迎えてくれた。
たとえそれが、ある日の朝の突然の思いつきであったとしても。
祖父母との会話は、いつでも本当に他愛ないものだ。
今年のツバメはどこに巣をこさえたのか、
箱入り娘のはるちゃん(犬)のウエストまわり、
あの花はなに、この木はなに?といった植物談義、
トマトの収穫はいつ頃か、
私と叔母しか食べないパクチーがいかにすぐ増えるか、
最近の天気のこと。
自然の中の生活の小さな断片、ちょっとしたことで気の置けない会話をできることがとてもありがたい。
心が落ち着き、健やかに磨かれてくる。
あまたの植物の種の1粒1粒を面白がるような会話の続きから、
何気なく、今年はどれくらい田植えをするのかを尋ねた。
すると祖母は、50くらいだと答え、
前はどれくらいだったのかと問えば、300ぐらいだという。
単位はわからなかったのが(まさか苗の本数ではないだろうし)、
祖父母共に80代であるから、6分の1の今の量が最良なのだろう。
そのときに祖母がぽつりと言ったのが冒頭の言葉だ。
「自分たちが食べられる分だけあれば生きンだ」
もしかしたら、当の祖母からすれば、自分たち夫婦の限界の吐露でしかない一言だったのかもしれない。
けれど、その横で、私はとてつもない衝撃を受けていた。
実際、祖父母自身やその兄弟、娘たちとその家族の分の腹を満たすぐらいの米は、その手で育て、食わせてきた人なのだ。
そういうウン十年続けてきた経験をただ事実として口にしただけなのだろうが私はこのとき全てが、この先の見通しまでストンと腑に落ちてしまった。
コロナにあおられ参った(ような気になっていた)私の悩みなどどれほど小さいことか。
自ら育ててきた米を食えば、何のことはない。生きられるのだ。
私には絶対に言えない言葉を、いえる人間がこんなにもすぐ近くにいた。
たぶんそれが、のびた爪を切りながらの言葉であっても尊敬の度合いは何一つ変わらなかったと思う。
とはいえ「変わらなくてもいい生活」は、
これまでの私を知る人からみれば、また突拍子もないことを、、ときっと言われてしまうだろうな。
なぜなら、「生活」それ自体、おろそかにしてきた人間なので。
(このことはいつかまた別の機会にかけたら)
それでもちょっとずつでも、生活の中の人間になるところから大事にしようということで、
先日祖父母のビニルハウスからたくさんニラをもらってきた。
けれど、昨今のテイクアウトメニューの充実ぶりにウキウキしてしまい、
冷蔵庫の中ですっかり傷ませてしまった。
どうせタダの植物なんだからと割り切ることはしたくなかったので(例えば捨てるとか)、
せっかくいただいたのだから、とよっぽど傷んでいる部分だけを除いて、
贖いもこめて、卵でとじておいしくいただいた。
道のりは遠く、近く。
この環境がすぐそばにあることに心から感謝することから始めることにしよう
写真は、相棒(犬)が戯れにむしりまくったヒメシャガ