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『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅲ.spring song』が描いたもの。

最初に

『Fate/stay night』が二十周年ということで、あまりにも今更ではありますが、アニメ映画の中でHF三章が一番好きなので感想を書きました。

元々は場面ごとに今までの各√ごとで描かれたものや、原作と映画の差を書いた文章にする予定だったのですが、あまりにも長い記事(断念した段階で5万字ほど)になってしまい、初心に立ち帰り私の素直に感じたものにしました。

今回の記事で語れなかった内容などはその内、別の記事やX(旧 twitter)のほうで小出しにしていこうかなと思います。



たった一つのカットが生んだ罰

この映画は間桐慎二の死体を見つけ、瞳を静かに衛宮士郎が閉じるところから始まる。ここの慎二を弔う士郎は映画オリジナルの場面で、原作では士郎は慎二の死体を確認し、そこから事態を察するのみで終わっていた。

※士郎と慎二の関係は、第二章の特装版のパンフレットに付属しているドラマCD『インタビュー 未遂行 掲載予定無し』を聞いていただけるとよく伝わってくるので、是非とも一度は聞いてみる事をオススメする。軽く内容を説明すると名も知らぬ誰かが間桐慎二の元を訪れ、彼から聖杯戦争や彼自身の過去についてインタビューする内容となっており、間桐慎二から見た桜や士郎、聖杯戦争について語られる。

本編を見れば分かるとおり、彼は徹底的に道化師として描かれる。彼は嫌な人間ではあるが、同時に哀れな存在だ。彼は才能にあふれた人間ではあるが、最も望んでいた魔術師としての才能だけは与えられなかった。けれど、彼は魔術師であることに固執し、ライダーのマスターとなるが、士郎のセイバーにあっさりと敗北してしまう。

第1章での士郎にあっさりと敗北し、プライドをズタズタにされた慎二が最後に縋り付いたのは妹である桜でした。第二章の中盤において、慎二は桜を学校に呼び出し、士郎に対する人質として利用するが、彼のそんな愚かな企みはライダーの裏切りによりあっさりと終わりを迎え、その後に起こった桜の暴走で慎二の行いは無かったかの様に流されていく。

彼が聖杯戦争に参加するには桜の協力が必須なのに、彼は桜に対して憎しみを持っており、ここまで強い感情を持つに至った経緯も先ほど紹介したパンフレットの特典であるドラマCDを聞くとより詳細に把握する事ができる。

第二章の終盤、全ての因縁に決着をつけようと決意した桜はたった一人で間桐家に向かい、慎二と遭遇した。そこで、桜は慎二に犯されそうになりますが拒絶するが、結局は抵抗も虚しく慎二に犯される寸前まで行く。

こんな人、いなければいいのに

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅱ.lost butterfly 』間桐桜の台詞より引用


間桐慎二は追い込まれ続けた結果、桜に上記の台詞を言われてしまうほどの存在になり果ててしまった。

しかし、皮肉なことに、間桐桜にすら醜く思われるという愚かな存在になり果てた事で、彼はようやく物語に干渉できた。彼を殺害したことをきっかけに、桜はこれまで奪ってきた多くの命を自覚し、黒化する。

つまり、自らの命を代償にするという形で彼はようやく物語に大きく関わることができたのだ。

そんな中で、衛宮士郎が最後に彼にした行為は弔いでした。

常に道化でしかなく、士郎視点では最愛の人間である桜を傷つける存在でありながら、死者となった彼に怒りをぶつけることも無く、ただ彼の死を悼む。そして、この原作にはないこの行動こそが、間桐慎二に対する最大の罰になった様に私には思える。それは、彼は憎まれたり、怒りをぶつけるより、憐れまれることを嫌がる人間であり、衛宮士郎にその感情を向けられるのが最も嫌う事なのですから。


セイバーを殺す意味

原作をプレイされた方の中で、ここの場面の選択肢に初めて出会った際に、セイバーを刺すという選択ができた方どれくらいいるだろうか。

それほどに、この場面の選択は他の二つの√をプレイした後のこの選択肢は辛いものであった。けれど、映画では士郎がセイバーを刺す場面で迷いは無い。その旨は絵コンテにも記載されている。

それはそのはずで、この物語と他の二つの√は私たち視点で見れば繋がりはあるけれど、少なくとも桜√での士郎にとっては無関係だ。原作ではセイバーを刺した後に回想シーンを挟んで、士郎の心境が描かれる。けれど、この√のみを考えるなら、セイバーと士郎の絆を描くには不十分であり、ここの場面はプレイヤーに向けた描写と言い切っても良いのかもしれない。

さて、そんなプレイヤーにとって重みのある決断を迫る場面であるが、セイバーを殺さないとバッドエンドに突入する。つまり、少し誇張した表現をするなら、セイバーを殺す以外の選択肢が桜√には存在しないことを意味している。そこには士郎が理想を捨てることと、物語が日常に帰還することで終わりを迎える事が大きく関わっている。

かつて衛宮士郎の抱いていた理想は、凛√で詳細に描かれた様に全ての人を救う事にある。誰も犠牲にならないという絵空事で、それに近い事を成し遂げる事ができるとすれば英雄だけであり、実際に彼はそれを成し遂げようとして、その結果が英霊エミヤであるのは今更確認する事でも無いだろう。

彼にとって聖杯戦争に関わりを持ったタイミングは別だが、彼が聖杯戦争の参加者になったのはセイバーと契約したタイミングだ。だからこそ、運命の夜という言葉が使われているわけで、この聖杯戦争に巻き込まれる事により、彼は非日常的な日々を歩む事になり、同時に正義の味方としての道に大きく邁進する事になる。つまり、セイバーは士郎にとって非日常と理想を合わせた象徴の様なものだ。それ故に、セイバー√と凜√ではセイバーと士郎は共に最後まで戦い抜く事になる。

けれど、桜√では士郎は大衆ではなく、個人の為の正義の味方になる事を決意する。衛宮邸で過ごした桜との日常を取り戻す事を選択し、それは同時にセイバーという非日常を切り捨てるという事に直結する。日常と非日常が両立する事はない。

fateという物語は基本的に英雄の物語だ。「人間とはこんなに凄いんだぞ!!」という人間讃歌のを描いており、だからこそ、英霊達の過去にスポットライトが当たりながらセイバー√と凛√は進んで行く。けれど、桜√では大きく異なる。桜√において、桜は人類にとって明確な悪になってしまう。彼女が被害者だったとしても、彼女が犯した罪を擁護する事は不可能だ。そんな物語において、大半の英霊は物語の前半で退場していく。ここには、桜√が英雄について描いた煌びやかな物語ではなく、今を生きる人間を描いた『月姫』的な物語にシフトした事を意味している。

奈須きのこの描く物語の根底には失われるものがないと嘘になるというのが存在する。何かを得る為には何かを捨てる必要があるという等価交換的な発想だ(例えば、『空の境界』では織が犠牲になる事で式の夢が守られた)。

つまり、セイバーを殺すことで士郎はようやく桜を救う権利を手にする事ができたのだ。

士郎の犯した罪

なんで姉さんを庇うんですか?

なんで何も言わないんですか?

なんで叱らないんですか?

兄さんがどうなったか見てきたのに

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅲ.spring song』間桐桜の台詞より引用

第三章において、間桐邸からライダーに運ばれて衛宮邸に到着した士郎は黒化した桜を見て何かを言おうとしますが、その言葉を士郎は飲み込み、倒れた凜の元へと向かう。ここの場面で桜の表情の変化は皆様にとっても印象的だろう。

見てください先輩。私、最初から狂ってたんです。

『Fate/stay night Heaven’s Feel 第三章 spring song』間桐桜の台詞より引用

先ほどの台詞に対して反論した士郎に向けた桜の台詞が上記のものになるが、第一章の倉で士郎と桜の暖の前でのやり取りが呼び起こされた方も多いいのではないでだろうか。

第一章で、土蔵にいた士郎の元を訪れた桜は、士郎と会話をし、最後に彼女は士郎に問いかけた。

もし、私が悪い人になったら、許せませんか?

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅰ.presage flower』間桐桜の台詞より引用

この問いは、別の場面で再度繰り返される事になる。

私は、いつさっきみたいに取り乱すかわからなくて、きっと取り返しのつかない事をします

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅱ.lost butterfly 』間桐桜の台詞より引用

HF√でも人気の高いレインの場面で桜が発した台詞が上記であり、この発言に至るまでの描写を見れば、土蔵で桜が発した問いと同じ意味を持っている事がよく分かるだろう。そして、士郎は上記の桜の発言に以下のように答えた。

俺が守る。どんな事になっても、桜自身が桜を殺そうとしても、俺が桜を守るよ。俺は桜だけの正義の味方になる

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅱ.lost butterfly 』衛宮士郎の台詞より引用

そして、土蔵での問いにも以下のように答えた。

ああ。桜が悪いコトをしたら怒る。きっと、他のヤツより何倍も怒ると思う

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅰ.presage flower』衛宮士郎の台詞より引用

士郎は桜にハッキリと返答した。けれどどちらも、桜の言葉の意味が士郎には届いていなかった。それは、彼女も慎二に似て単純に不器用だった事と、士郎が目を現実を直視する事を拒んできたからで、彼女の発言の真意は第三章でようやくハッキリと描かれる。

どうして何も言わないんですか

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅲ.spring song』間桐桜の台詞より引用

先ほども述べたように、第三章の冒頭で凜の元に向かった士郎に桜は怒りをあらわにするが、その真意をこれまでの発言を元に考えるのなら、彼女は先輩に叱って欲しかっただけなのだろう。

ただ、自分を顧みて欲しかったのだ。

例え、それが愛する人から向けられた厳しい視線であっても、自分のことを思って、自分だけを見ていて欲しかった。

かつて遠坂邸で幸福に暮らしていた彼女が、間桐邸に養子に出された後、地獄の日々を過ごす中でたった一つの優しい世界を与えてくれた存在が士郎でした。

第1章で士郎は桜と土蔵で約束を交わしたが、その約束を土蔵の前で破ることになったのがこの場面。ライダーと共に戻ってきたら士郎が自分より、姉を優先した。

その思い出まで、とらないで

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅱ.lost butterfly 』衛宮士郎の台詞より引用

悲しいかな、士郎の弱さが、桜には凜を選んだように写ってしまったのだった。


『春に帰る』で描かれたもの

本作は原作の『春に帰る』を軸とした結末を迎える。

劇場版をご覧になった方の多くから、この結末は原作においてもう一つの結末に当たる『櫻の夢』を混ぜ込んだものという感想が多く見られた。

無論、感想は人それぞれの自由であり、そこに正否は存在しない。けれど、それを承知の上で私は「この映画の結末は『春に帰る』そのものだ!」と断言したい。そもそも、『春に帰る』は元から『櫻の夢』のニュアンスを含んでいるように私は思う。そして、その根拠は原作と映画の共にエピローグで描かれる凜の桜に向けた問いに集約されている。

原作をご存じない方の為に『櫻の夢』を簡単に話すと士郎の帰りを一人衛宮邸で待ち続ける桜を描いた√だ。そこには、自らの罪と淡々と一人で向き合いながらも、日々を生きて行く間桐桜の心情が詳細に描かれる。

『櫻の夢』という結末は桜にとって過酷なものになるが、一方で『春に帰る』は帰国した凜を含めた四人で桜を見に行く所で幕を閉じる。ここの差に、物語の流れとしては『櫻の夢』を支持する層がいるのは納得の話ではある。けれど、私的には、それは表面上の解釈に過ぎないように思えてしまう。そして、劇場版は『春に帰る』に含まれたニュアンスを見事に拾い上げた作品だと私は考えている。

まず、原作と本作のエピローグにおける重要な差は語り手に桜が追加された事である。原作では凜の視点で聖杯戦争の事の顛末などが語られ、四人で桜を見に向かう所で幕を閉じる。一方で映画では語り手は序盤は凜が担当するが、衛宮邸に場面が移ると、語り手は桜になっている。つまり、原作においての結末はあくまで凜の視点での結末なのだ。桜が、士郎が何を思っていたのかが具体的にはわからない。けれど、劇場版では桜の視点で語られるので、その点を押さえて見ていくべきである。

本作を見た方々なら、桜が咎人であることを疑う人はいないだろう。無関係の大勢の人々を殺し(桜の意思ではないが)、血縁関係が無いとはいえ兄である間桐慎二も殺害した。これは紛れも無い事実であり、法律に従うなら、彼女は極刑になる。しかし、社会が彼女を裁くことなど決してあり得ない。彼女が大勢を殺害した証拠など何一つも無い(魔術的な視点での証拠はあるのかもしれないが、少なくと日本の法律で裁くことは不可能だろう)。

誰も彼女を犯人だと思う事は無く、彼女は誰からも責められる事が無くなる。それは、言ってしまえば誰からも桜という存在が顧みられない事を意味する。そして、間桐桜は自分の犯した罪を忘れてのうのうと生きていけるような人間では無い。

彼女は異常な精神の忍耐力を持っている。この言い方はかなり語弊を含んでいるが、端的に言ってしまうならその様な表現になる。それは、蟲蔵での日々などを思えば容易に想像が着き、それは第一章のラストの場面で映像としてハッキリと描かれている。

柳洞寺からボロボロになりながら帰還した士郎を、桜は外で待っていた。ここの場面は表面的に見れば桜の健気さが強く感じられるが、彼女の足に注目すれば少し変わった感想が得られるだろう。彼女は雪が降り積もる中、裸足でサンダルを履くだけで外で待っていた。ここで重要なのは、桜は寒さを感じていない訳では無い。彼女は雪の中で待つにはあまりにも心許ないが上着を羽織っている。けれど、足下は無防備なのだ。これは、彼女が異常なまでの痛みに対する耐性を持っている事がよく伝わってくる(無論、ここの場面では寒さによる苦痛よりも士郎に対する心配が勝っているからこその行動ではあることを留意しておく必要はある)。

もしくは彼女は自分の感じる肉体的、精神的な痛みを他人事として処理できる様になっているという見方をしても良いだろう。とにかく、彼女は我慢強いだけであり、決して非道な人間であり、ヒロインの中で一番プレイヤーに近い感性を持っている。

桜はエピローグにおいて凜に対して以下のように述べている。

はい、少しずつですけど色々なことを素直に受け止められるようになりました。罪の意識で潰されるのは逃げなんだって

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅲ.spring song』間桐桜の台詞より引用

彼女は自らの罪から逃げていない。目を背けているわけでもない。

それは公園で士郎と桜が手を取り合う事なく歩き出したという描写からも読み取れる。白線の前で止まる桜、その横に士郎が来る。二人の手はすぐ近くにあるのに、手を繋ぐことなく同時に歩き出す。それは、間桐桜という人間が自らの罪に一人で向き合うことの証明に他ならない(そして、士郎もまた、自らの罪に向き合う)。

そして、大空洞において士郎は桜に以下の様に発言している。

奪ったからには責任を果たせ。

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅲ.spring song』間桐桜の台詞より引用

『櫻の夢』では士郎を待ち続けるというのが責任の果たし方だった。では、『春に帰る』では彼女はどのように責任を果たしているのだろうか。その答えこそが、凜と桜のやり取りに詰まっている。

時計塔から日本に帰国した凜は、衛宮邸に到着した後に桜達と合流して桜を見るために衛宮邸から公園に向かう。衛宮邸を立つ直前で凜は桜に問う。

桜、今幸せ?

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅲ.spring song』間桐桜の台詞より引用

これまで述べてきたように、彼女は咎人である。そして、その事実から逃げていない事も既に述べたとおりだ。けれど、桜は上記の問いかけに対して一瞬過去を振り返る様に顔やや下に向けた後に、ハッキリと凜を見つめ、とびきりの笑顔で答えた。

はい

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅲ.spring song』間桐桜の台詞より引用

桜にとって責任を果たすとはなんなのだろうか。

それは多分、桜が幸せでいることなのだろう

多くの罪を背負いながら、その痕跡が残る冬木の町から出ることも自分は不幸だと嘆くこと誰からもその罪を責められる事も無く、たった一人で向き合いながら幸せな日々を生きていく。

彼女の幸福に納得がいかない方もいるだろう。けれど、考えてみて欲しい。彼女の生い立ちと、その果てに生まれた罪を背負ながら、それでも幸せだと答える彼女の強さを。

そして、そう捉えてみると、士郎と桜が白線から踏み出す場面により重みを感じるはずだ。

あの一歩が、これから桜が歩み続ける道がどれほど苦難と幸せに満ちいているのか。


最後に


私の感想を最後まで読んでくれた方がいたのなら、感謝しか無いです。

先ほど劇場版の結末についてだらだらと述べましたが、強く言いたいのは「桜は幸せなんだけど、そこには想像もつかない様な苦難を含んでいるんだよ!」という事。

全くの別作品の話なのですが、神戸守監督が『エルフェンリート』を解説した際に述べていたことの最後が、そのまま、この物語の全てにぴったりと当てはまるのかなと思います。

この作品は表面的にはお色気、ラブコメ、バイオレンスだが、本質は差別と救いであろう。社会問題にもなっている苛め、つまり差別はこの作品の中に詰まっている。誰しも救いは求めている

アニメ版公式サイト:Backstage:Comment (神戸守)




士郎に感じた違和感の話。

本作の中で、なんとなく感じた話があるので、別枠として最後に載せようと思う。

衛宮士郎は魔術の才能は無いが、物質の構造を把握する能力は優れている。士郎は頻繁に土蔵で過ごしており、第一章では修理したストーブで暖を取りながら桜と士郎は会話をしていた。けれど、突然ストーブは故障してしまう。

皆さんも何か物を壊れた物を修理した事があるだろ。何かを直す時、故障した部分に何か新しいパーツを使わなければならない。テセウスの船の様な話を想像していただくと理解しやすいののだが、一度壊れたものが、全く同じものとして回復することは無い。ほんの少しでも、どこか変わっている。それが目に見えないものだとしても、変わらないままのものはない。

それは劇場版のHFのラストにもよく表れている。再びエピローグに話になるが、原作と映画の大きな違いの一つに士郎の台詞量がある。桜と凛、ライダーの台詞がありながら、士郎はほとんど台詞が存在しない。そもそも、原作自体少なかった。

確認するまでもなく、fate stay nightは衛宮士郎と各√のヒロインを巡る物語である。けれど本作のラストでは原作と映画のどちらとも視点は士郎に移ることはない。彼が何を思っていたのか、描かれる事は無かった。

この違和感は桜の取り戻した日常が不完全だった事の表れだろう。確かに士郎と桜は日常を取り戻した、イリヤを犠牲にしながらも、かつての日々は再開した。

変化し続ける世界で、変わらないでいてくれたものが….

『Fate/stay night [Heaven’s Feel] Ⅲ.spring song』間桐桜の台詞より引用

けれど、士郎もその例外ではなかったのかもしれない。

聖杯戦争が始る前の日常に戻ることは誰にもできなかった。これから続いてく日常はかつてのような日々と同じように見えても、根本的には完全に異なる物になってしまった。

もちろん、それが不幸だとは言わないし、この物語はそんな表現を一つもしていない。間桐桜は幸せなんだときちんと提示して幕を下ろした。


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