俺の昔の話 part2

NSR50を手に入れ、俺のバイクライフが始まった。
高校生の頃、乗りたくて乗りたくて、乗れなかったバイクにやっと乗る事ができた。
クルマにハマってしまって忘れていた感情が込み上げる。なんとも表現しがたい楽しさがあった。
オッサンになった今でもバイクが何故楽しいのか説明はできないが、ガキの頃に初めて自転車に乗れる様になって、独りで走り出したあの頃の新鮮さというか、何とも言えない楽しさだ。
信号待ちしていると若い通行人からジロジロと見られる。
そんなにNSR50が珍しいか?
よくわからないけど、どういう訳か注目された記憶しかない。
バイクに乗るとクルマの運転が上手くなる、の意味を探す旅に出た。
その頃はよくわからなかったが、今は何となく解る気がする。
つまり、こういう事ではないのか、という推測ではあるが、バイク乗りというのは路面状況やタイヤのグリップに敏感になるのと、速度やブレーキの感覚もより集中して探ろうとする。
4輪車でもグリップや路面状況を把握し、その状況下での限界を引き出そうとするが、バイクではワンミスが命取りになる。
クルマの様にリカバリーがしづらい反面、感覚が研ぎ澄まされるからではないのであろうか、と思う。
地元のK盛というワインディングロードでバイクのコーナリングの仕方や、タイヤのグリップを感じる事の大切さを実感した。
バイクで走り込んだ事で得るものは大きかった。
週末にいつもの夜の埠頭へクルマで行き、ドリフトをするとその事が実感できた。
このくらいハンドルを切ると滑りだす、このくらいアクセルを入れるとリヤタイヤの限界を超えてスライドが始まる、という感覚がより感じることができた。
気付けば週末の埠頭で先頭を走るくらいまで成長していた。当時は週末の夜にドリフト好きな連中が集まるのが埠頭で、1番速くてミスしない奴が先頭に行くという暗黙のルールがあった。知らない奴同志が暗黙のルールに従い、同じコースを何度も周回するのである。
そこで小手ならしをして、気の合う友達と夜の峠へ繰り出す為の待ち合わせ場所でもあった。
縁石にフロントバンパーに付いてるナンバープレートを軽く擦って火花を散らす、なんていう芸当もできる様になっていた。
当時は180SXで走る事が多かったので、フロントバンパーの右下部分にナンバープレートを移設していた。バンパーの中央部分はインタークーラーに風を当てる為に横長の穴を空けていた(古口スタイルと呼ばれていた)ので、ドリフト中の右コーナーではクリップを付くと縁石にナンバーの端っこを擦れるのだ。
コーナー(曲がり角のイン側の歩道)にはギャラリーがいて、縁石火花散らし走行はギャラリー受けしたもんだ。
話をバイクに戻そう。
つまり、バイクで峠を攻めると感覚が研ぎ澄まされてクルマの運転も上手くなるのだ。
バイクもクルマも路面との接点は常にタイヤである。モータースポーツにおいても1番大切なパーツは無論、タイヤである。
F1でもMOTOGPでもタイヤの重要性は1番大きいと言っても過言ではない。
速く走る事、上手く運転する為にはタイヤの性能が1番大切な要素ではなかろうか。
今でもバイクに乗るとそう思う。
どんなにパワーがあるエンジンを積んでいようが、どんなに運転がうまかろうが、タイヤの性能がショボかったら速くも上手くも走れないだろう。
特にバイクではそれが顕著に出る。
大袈裟に例えると、バイクとはエンジンの付いた2本のタイヤに乗っている様なものである。
よくよく考えると至極単純な構造であると思う。
しかしバイクの運転は奥が深い、そして難しい。
アクセルワーク、ブレーキング、コーナーリング、どの要素にも繊細な荷重移動とテクニックが必要であることは言うまでもない。
そんな運転が難しいバイクを上手く乗りこなす事ができたらどれだけ楽しい事か、他人へ伝えたくなってしまう。
俺はまだまだ未熟だし、上には上がいる。
1つだけ言えるとすれば、よくいる普通のライダーには負けない。
だがしかしサーキットへ行くと俺より速い奴が大勢いる。
まだまだ旅路の途中である、ということだな。

『つづく』



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