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メルティーキッスの日和
バレンタインって何をする日だっけ。カレンダーをめくりながら考えた。今年買ったカレンダーには元日や春節のような色々な記念日が書かれていたが、その中でバレンタインは、かなり異質なものだった。バレンタインってカレンダーに書いてあるほど大事な日だっけ? それだけではない。ホワイトデーとか、クリスマスとか、ハロウィンとか。自分はかつて「要らない」扱いをしてしまった記念日が可愛らしい絵文字で強調されていた。こんな些細な記念日を待つ人がそんなに多かったんだ。
そういえば、私はいつからこのような些細な記念日をただ流れる数字の一つとして認識していたんだろう。記念日をお祝うなんて子供っぽいだと、冷笑的な態度を取った時期も確かにあったが、それよりは、もっと遠大で情熱を注ぐようなことに集中するため、小さなことに目を向けなかった人生を生きてきたせいかもしれない。もちろんそのおかげで、好きなことに精一杯没頭し、勉強し、今こうやって日本で留学しているわけだが、でも、なんというか。努力した上で確実に保障される幸せに安住しているから、周辺に散らばっている当然の幸せを逃しているのではないかという考えがよぎった。
よぎったなら、思うべき。
バレンタインデーはチョコレートをあげる日だ。あと、あげる性別ともらう性別が決まっていた気がするが、私にとって性別は難しい概念でもあり、何より、「チョコレートを配る行為」がバレンタインの唯一無二の特徴だと判断したので、それはおいとくことにした。とにかく私はバレンタインデーにチョコレートを誰かに配りたい。それがバレンタインというよく分からない記念日の楽しみ方だと判断したからだ。
そこまで考えたとき、過去の思い出を思い出した。そういえば私、チョコレートを配った経験があったんだ。高校生の時に。生徒会側に余ったチョコの処分を頼まれて。近くの商店街の人たちにチョコレートを一つずつ配って。みんなの笑顔を見て。その時は無謀なことだと思ったが、今このように忘れていたことから考えると、それは本当に大したことではない日常的な行為だったのかもしれない。
チョコレートを配るというのは、 本当に大したことない行為だ。じゃあ、しない理由がないのではないか。せっかくこの世にバレンタインという記念日も存在するのに、チョコをあげないのももったいない。だから、過去の私が残した思い出を参考にして、バレンタインについて何も知らない私のバレンタインデーを始めてみよう、と思った。
思ったなら、行動するべき。
バレンタインという記念日を意識してから、一日一日がドキドキしてきた。こんなドキドキは久しぶりだった。私のようにこのドキドキの存在を忘却したまま生きいる人にバレンタインを知らせたかった。皆さん、2月14日はバレンタインですよ。私もよくわかりませんけど、とにかくチョコレートを配る日らしいです。ということで、皆さんにチョコレートをあげたいです。
じゃあ、巣鴨に行ってみようか。
私は巣鴨商店街が好きだ。自分の実家とかなり似ているからだ。だから、バレンタインをきっかけに私の好きな巣鴨で、私の好きな巣鴨商店街の人々に、私がこの町が好きだと発信したかった。チョコレート一つだけで。
コンビニでメルティーキッスを買った。メルティーキッスで選んだ理由は、私が唯一知っている小包装されたチョコレートだったからだ。チョコレートについて何も知らない私のチョコレートの購入を始めよう、そう思って、メルティーキッスをいっぱい買った。メルティーキッスという名前がなんとなくかっこよく見えてきた頃、小包装されたメルティーキッスを白い布に全て包むことができた。
私たちの目的は文字通り「チョコレートを配る」ことだった。それで何も考えず、ただ商店街に入り、「これはいくらですか?」と聞く感覚で、「ハッピーバレンタイン」という挨拶とともにチョコレートを1個ずつ配った。慌てたり警戒したりする人も確かにいたが、うれしい笑顔とともに受けてくれる人たちも確実に存在した。ただ小包装されたメルティーキッス一つに過ぎないのに,人々は感謝を伝え、時には物質的な何かでお返ししてくれたりもした。孫にあげるってチョコレートをポケットへ大切に入れておく方もいれば、せっかくだから自分の今日の日常を共有する方、巣鴨商店街についてあれこれガイドをしてくださった方もいた。世の中は「年齢の壁」が明らかに存在する場所なので、私も高年齢層の日本の人たちと向き合ったのってこの日が初めてだったが、年齢が違うからといって接し方が変わることはないんだなと、この日改めて思った。大学生であれ老人であれ子供であれ、皆が予想できなかった贈り物に喜び、それを隠さず表情に出す。
そんな果敢さで街の笑顔は続き、「楽しい場所」へ変わっていく。ただチョコレート一つだけで。もしかしたら、隣で売っていた焼きそば一つで。もしかしたら、あちらで売っていたミニトマトで。もしかしたら、あそこの角の手相店で。もしかしたら、あの隅にあるいも屋さんで。もしかしたら、休憩所に座って休憩を取っている商店街のお客さんたちの会話で。もしかしたら、そういう何気ない日常的なもので、私たちは「楽しい場所」を作り出すことができるのかもしれない。
私たちが配ったのはたかがメルティーキッス一つだったが、返ってくるのは皆の笑顔と楽しい対話だった。すごい、たかがチョコレート一つでこの街と交流しているよ。すごいことというのは、正に大したことないことから始まるんだ。まるで私があの日友達から「日本語が好きなら留学するのはどう?」と言われて今日本に来ているように。まるで私たちが「したい」という気持ちだけで何かを行動に移すように。些細であれ巨大であれ、結局幸せはついてくるものだ。異なるところがあれば、遠大な欲望を達成した後に得られる幸せは、努力した分だけついてくる正当な幸せであり、ただやりたいことをした後についてくる幸せは感じた分だけついてくる当然の幸せだというところ。
メルティーキッスを配った後、芝生公園に横になって一日を振り返った。今日一日私たちは何をしたっけ。知らない人にメルティーキッスをあげて、おしゃべりした。それはなぜだったっけ。それは、今日がバレンタインだから。バレンタインって何をする日だっけ。元日や春節と違ってかなり異質なものだったが、今日で私はついにバレンタインと親しくなった。今日、私がチョコレート一つで巣鴨の商店街と親しくなったように。それだけではない。ホワイトデーとか、クリスマスとか、ハロウィンとか。かつて要らない扱いをしてしまった記念日を,これからは要るもの扱いをしたくなった。そりゃあ、せっかくこの世にあんな記念日が存在するのに、楽しまないともったいないからだ。
私はこれからもこういう記念日を自分だけのやり方で楽しみたい。楽しまないともったいないから、という理由一つだけで。