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一緒じゃない人への一緒という喜び

 「一緒」がもたらす勇気は正に愚かなほど巨大だ。Doの活動で言えば、一緒にいることで私たちは物乞いができ、一緒にいることで巣鴨の人たちにチョコを配ることができた。そして私たちは先日、代々木公園でギターを弾きながら歌を歌った。それもまた、「やりたい」と思った人々が一緒だったからできた行為だった。
 最初はただ路上ライブのための「練習」のための練習だった。しかし、私たちはすぐに人の多いところに場所を移し、広い芝生の上にそびえる枯れた木の下に座ってギターを引きながら歌を歌った。単なる練習に過ぎないその行為は、人前に立つ瞬間ライブになり、少ないが確かな観客を集めた。一人の子供が近づいてきて一緒に歌を歌ってくれたのだ。私たちと一緒じゃなかった知らない子供の登場は正に熱狂的だった。リズムとメロディーに合わせて一緒に声を出すだけで、人々は感情的共有ができるということに気付いた。一緒じゃない人がもたらす突然で新しい形の幸せに、気付いたのだ。
 練習後、会議のためにカフェに向かう途中で路上ライブをしている音楽人を見つけた。盛り上げようと思ったので、盛り上げに行った。私たちと一緒じゃなかったその音楽人の歌に歓呼し、音楽の世界に身を任せる私たちを、一緒じゃない路上の人々がちらりと見続け、彼らもまた彼らと一緒じゃないその音楽人の歌に集中し、足を止めて音楽に身を任せる。人と人がつながる方式とは、実に奇異でありながらも、実に簡単だった。音楽の力とは、一緒の力とは、そういうものだった。

 会議後、「誰かを待ちたい」と仲間の一人が言った。「待ちたい」という言葉の本質について考えてた私は余り仲間たちの話を聞いていなかったが、その間私の仲間たちは既に誰かを呼び出したみたいだった。名前すらも覚えてない「誰か」だったが、とにかく私たちはそのよくわけのわからない誰かを待つために行き先もなくただただ歩いた。Doの大好きな迷子の時間だった。
 一緒がもたらす勇気は正に愚かなほど巨大で、私たちは一時間ほど雨の中を歩きながら待っている「誰か」について話した。誰かはDOの幽霊会員のような存在で、少数のメンバーと仲良くて、基本的に人見知りで、可愛い彼女がいて、バイトが終わってからこっちに向かう途中、事故に遭った。らしい。事故ってどいうこと?つまり、私が全然知らない、もしかしたら今日会って仲良くなったかもしれない人が事故にあって、これからも全然知らない人になり続けるということだった。原始的な恐怖が襲ってくる頃、仲間一人がそうだった。その「誰か」はいない存在で、私たちはいない存在を待っているのだと。 あえていない存在を作って、あえて待つ時間を忍耐し、あえて存在しない誰かの事故を悼んでいたのだと。
 あ、なるほど。そういうことだね。そんなことなら乗ってあげるわ。いや、DOしてあげるわ。と思った。
 その後、私たちは雨の中を歩きながら、私たちと一緒じゃない、実在しない仮想の存在を創造した。仮想の存在をまるで実在するかのように扱った。そんなふうに雨の中で私たちの世界を即興的に拡張していった。そもそも雨はどうでもよかった。ただ、歩いているとたまたま雨が降っただけ。その雨が私たちの歩きを止められなかっただけ。DOは迷子の時間が好きなだけ。迷子になってあれこれ話すのが好きなだけ。今この雨の中で、存在しない仮想の女をめぐって争う話をすることにかなり夢中になっているから仕方ない。歩くしかないのだ。歩きながら、仮想の存在のために笑ったり泣いたりした。私たちが創作した話に没頭し、感情を発散し、ただそういうふうに。
 非現実的な話は聞き流しがちなものなので、人は情報を得ることではなく、話している「人」そのものに注目する。普段認識しなかった仲間たちの言葉遣い、価値観、感情が激しくなる時点などが見えるようになったということだ。一緒じゃない人々によって、一緒である仲間たちについてより詳しくしることができる経験は不思議でありつつ、素敵だった。
 帰りの電車で一日を振り返った。私は一日中仲間たちと一緒だったが、同時に一日中もともと一緒じゃない誰かと一緒となった。公園でライブをしなかったなら会えなかった人と一緒になり、原宿駅の路上ライブを見なかったなら感じられなかった一緒という認識を感じ、存在しない対象を作らなかったなら気付くことのできない仲間たちの姿を覗き込みながら、再び「一緒」という形の絆を覚えた。これからも「一緒」がもたらす豊かさを満喫し、DOのみんなと「一緒」の範囲を増やしていきたいと、そう感じた一日だった。

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