せかいが存在しつづけるために
「豊かさは世界を破壊する」
それが、物質的豊かさを求め続け、
資本主義社会のもとに、大量生産大量消費社会を生み出した、
私たち人間の生きている世界の紛れもない現状である。
豊かさを求めるために、世界の森林は伐採され、
豊かさと引き換えに、世界の海は汚染され、
豊かさを得た結果、世界の気温は上昇し続けている。
私たち人類は、豊かさを求めて、文明を発展させてきた。
それは日本においても同じである。
明治期には、東京の街に電灯が灯り、各地で機械化された大規模な工場ができた。洋装で牛鍋(すき焼き)を食べ、ビールを飲む。それが「豊かさ」とされ、「牛鍋を食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と例えられた。文明開化は日本人の食文化や、生活様式を変え、欧米列強に追いつくため、富国強兵と近代化が推し進められた。
高度経済成長期もそうである。物質的豊かさを追い求め、欧米諸国に追いつくため、日本人は皆、馬車馬のように働いた。工場の煙突から出る黒い煙は、「豊かさの象徴」とまで言われた。その結果、日本は世界2位の経済的に「豊かな」国になった。
現在もそうだ。豊かな生活を送るため、一生懸命働き、お金を得て、モノを消費する。そんな豊かな生活を求める国民のために、国は経済成長を目標として、様々な経済政策を講じる。日本はまだ世界で3番目に経済的に「豊かな」国らしい。
あなたは今、自分が豊かだと言えるだろうか。
「ゆたかさって何だろう」
物質的豊かさを求めることが、私たちの目標なのだろうか。
アリストテレスは言った。
「人間の最終目標は幸福にある」と。
豊かさは幸福とイコールでつながるものであるべきなのではないだろうか。
物質的に豊かになることが、幸せではないとは言わない。
現に、物質的に豊かになることで、幸福で満たされている人もいるからだ。
問われるべきは、「物質的豊かさが本当の豊かさであり本当の幸せであるか」である。
4月16日、全国に緊急事態宣言が発令された。それ以降、外出は最小限にとどめることが求められ、あなたも家に居ることが多くなったのではないだろうか。
時代の進歩はすごい。家に居ても買い物をすることができる。欲しいモノがあれば、外に出ずとも買えてしまうのだ。それに家には、あなたが一生懸命働いて、得たお金で買ったモノがたくさんあることだろう。中には、ずっと欲しくて、お金を貯めて、やっと買ったモノもあるだろう。
つまり、自粛期間中にあっても、個人レベルで、物質的に豊かになることは可能であり、あなたが働いてお金を得て買ったモノに囲まれていたわけだから、物質的に豊かだったはずなのである。
自粛期間中、あなたは豊かでしたか?あなたは幸せでしたか?
「ゆたかさって何だろう」「しあわせって何だろう」
人生というのは短い。あっという間に死に際が来てしまう。
死んでしまったら、あなたが時間をかけて働いて、得たお金で買ったモノはあなたのモノではなくなる。一生懸命働いて買ったブランド物の服も、財布も、バックも。一生懸命貯金して買ったテレビも。ローンを組んで買った自動車も。死んでしまったら、あなたの所有物ではなくなる。
モノを買うために、人生の時間をかけて、一生懸命働いたのにも関らずだ。人生において大切にすべきことって何なのだろうか。
新型コロナウイルスは、私たちに豊かさを問い直すチャンスをくれた。
自粛期間中、モノに満たされながら足りなかったものは何か。
それはきっと「人との繋がり」だろう。
皆、人との繋がりを求め、ZOOM飲み会という言葉も生まれた。
モノだけでは、幸せには、豊かにはなれないのだ。
幸せとはお金で買えるものではなく、
人と人との繋がりで生まれるもので、
本当の豊かさとは、心の豊かさなのだ。
とてもとてもありきたりだが、そう思う。
死んでしまったらモノは残らないが、人との繋がりは誰かの記憶に残る。
だから人と繋がって心の豊かさを得て欲しい。
人との繋がりで生まれる幸せを知って欲しい。
死んだら何も残らないからこそ、生きている間、愛するということを大切にして欲しい。
それらがきっと本当の豊かさだと思うから。
そして、これからのゆたかさが、物質的豊かさから、
心の豊かさに変われば、世界の破壊も止まるだろう。
せかいが存在しつづけるためには、豊かさを変える必要があるのだ。
「過去の人々のシワ寄せを受けているだけじゃないか」
たしかにそうだ。だからと言って、過去を変えることはできない。これが私たちの生きている世界の現状であり、紛れもない真実だから。私たちはこれを受け止めないといけないのだ。
ただ、豊かさを変えるというのは非常に難しい。
人は物質的豊かさに慣れてしまうと、もっともっととモノを求めてしまう。
企業も収益を出すために、大量に作って、大量に売らなければならない。
国も資本主義である以上、経済成長を止めると、失業者が増えてしまう。
豊かさを変えるハードルは、高すぎて見えないほど高い。
しかし、変わらなければ、50年後、100年後、世界に人間は住めないかもしれない。
「人々はみな幸福そうで満足そうだ」
「幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」
「下層の人々がこんなに満足そうにしている国は他にない」
「彼らは皆よく肥え、身なりも良く、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もいない。これがおそらく本当の幸福の姿なのだろう」
これは上から、東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー、イギリス公使ラザフォード・オールコック、イタリア海軍中佐ヴィットリオ・アルミニヨン、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの幕末の日本人に対する印象である。
明治期の文明開化以降、日本には新しい豊かさが生まれ、現在に至っている。しかし、日本が本当に豊かだったのは、江戸時代までだったのかもしれない。
国内の資源とエネルギーだけを利用し、モノは長く大切に、再利用や、修理・修繕を繰り返しながら使い、ほぼ完全な循環型社会を築き上げた。厠に集めた糞尿ですら、有機液肥に加工し、優秀で良質な肥料として農業に使っていた。
食料自給率は100%以上、冷蔵庫もないため常に旬の食材を食べ、本当に必要なもの以外は持たず、比較的質素。江戸では月の半分も働けば妻や子供を養うことができ、まさに、「足るを知る」を実践し、家族との時間も大切にして、幸せに暮らしていた。
貧困にある東北の山間の小村に目を移しても、怠惰になる者も酒浸りになる者もおらず、一本の雑草も見つからないほど田畑を美しく整え、みな非常に勤勉で、たいそうな倹約家であった。
江戸時代は、約10年に1回は大地震や豪雨、飢饉などによる大きな災害に見舞われ、地方の農村はそのたびに極めて悲惨な状況に追い込まれていた。江戸でも、年に2回は大火事が起こり、火事のたびに大切なモノが奪われるという辛い状況にあった。
しかし、こうした災害や飢饉や大火事をしのぎ、その中を生き抜いて、毎日を充実させるという心の豊かさを持ち合わせていたからこそ、幸福を滲み出すようなことができたのが、私たちの祖先であった。
長崎海軍伝習所の教官であったオランダ人のカッテンディーケは、「日本人の欲望は単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である。生活第一の必需品は安い。上流家庭の食事とても、いたって簡素であるから、貧乏人だとて富貴の人々とさほど違った食事をしているわけではない。日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、華奢贅沢に執着心を持たないことであった。非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない。」と記している。物質的豊かさがなくても、すばらしい自然と、すばらしい村の友人がいれば、それだけで十分豊かだったのだ。
そんな江戸の世も、いつの間にか資本主義による格差社会に飲み込まれてしまった。経済成長率というものさしで図ると、江戸時代の経済成長率は、現在や高度経済成長期とは比べ物にならないくらい低い。ただ、どちらの方が豊かで、幸福であっただろうか。
これからの豊かさのヒントは、私たちの祖先にあるのかもしれない。私たちの祖先が持っていた日本人の心は、あなたの心の奥底にも眠っているはずだ。
せかいが存在しつづけるためには、ゆたかさが変わらなければならない。
これからのゆたかさを、あなたはどう考えるだろうか。
あなたは世界を変えることはできないかもしれない。
でも、あなたが変われば世界は変わるかもしれない。