休園中の遊園地
郵便局で働きながらアート活動をしていた若い友人の藍ちゃんが藝大の大学院の試験に受かったという。ところが突然のコロナ騒ぎで、受かったのはいいものの、学校に入ることができず、遠隔で授業を受けたりしているらしい。前橋からいなくなるのかと思っていたら、なんだかんだとまだ前橋にいて、しかも古巣の郵便局でまたちょっと働いたりするようだ。
藍ちゃんとはDadada!TVというyoutubeの番組を一緒に作っていて、いよいよ前橋を離れるのでSeason 1終了宣言が彼によってなされた。藍ちゃんの新しい世界でSeason 2が始まるかと期待してたところだったのに、拍子抜けで宙ぶらりんな感じは否めない。
藝大の遠隔授業の課題で彼が作った作品がyoutubeで公開された。
公開される前に見せてもらったのだが、前橋の小さな遊園地の遊具の前で、それらに乗っている格好をするパフォーマンスを撮影したものだ。コロナ騒動で無人になった小さな遊園地。そこでいい歳をした大人の藍ちゃんが、マスクをして滑稽な格好でポーズをとっている。
るなぱあくという名のその遊園地は、前橋で生まれ育った人にはとても特別な、こどもの頃には誰しも一度はそこで遊んだと言う場所である。私は大人になってから前橋に移住してきたので、その遊園地への前橋の人たちの思い入れは、今一つよくわからないところもあるのだが、前橋城のお堀だったというこじんまりとした窪地の中に、昔懐かしい感じの遊具がいくつも動いていて、不思議なノスタルジーを漂わせた、ちょっと独特な魅力を持っている。そこが今回のコロナ騒動で無人になっている様は、いくつもの意味で時間が止まった場所のようで、特別な雰囲気を漂わせる空間になっていた。
そこに目をつけたのか、藍ちゃんは藝大での初めての課題に無人のるなぱあくでの無観客のパフォーマンスを選んだ。
お笑いマニアの藍ちゃんはよく「一周まわって〜」みたいな言い方をする。基本シニカルなやつなのだが、シニカルであることをシニカルに捉えるような、メタ的というか、再帰的というか、要するに面倒くさい思考回路をしている。ただの雰囲気やムードを醸し出すだけのアートにはうんざりしていて、上っ面の善意や「正しさ」みたいなものへの悪意が彼の作品や活動には常に仕組まれている。それも「一周まわった」ようなやり方で。「一周まわって」、「もう一周まわって」、そうしてぐるぐる回るうちに、何をやっているのかよくわからなくなっている、というのはいつものことだ。
この作品でも、一見平和で間の抜けたポカンとしたイメージがパラパラと絵本のように展開されるだけなのだが、騒動の前の、一見平和で楽しい家族の憩いの場所である遊園地で繰り広げられていたであろうこどもたちの動作を、無人の遊園地で、大人が、一人きりで、遊具と一定の距離をおいてなぞる、という行為をみていると、写り込んだ動かないメリーゴーランドがこちらの頭の中で回り出し、何やら意味深な靄のようなものが立ち込め、不穏な気配が映像の向こうから立ち上がってくるようでもある。藍ちゃんのぐるぐる毒が私にもまわってきたのだろう。
多少社会学をかじった私には、彼のやっている行為は、認知心理学などの分野の概念である「アフォーダンス」に対する彼なりの考察なのかと思った。
アフォーダンスは、本来、動物と物の関係性に関わる考え方で、座るための形態である椅子や、引き開ける形態を持つ取手など、その形態が自然に行為を促すような、物体の持つ、動物や人間の行為との関係性を表す概念だ。デザインなどの文脈でこの概念は拡張され、社会学の中などでも使われることがある。
遊具は、遊ぶための物体だ。それはこどもたちを楽しませるようなアフォーダンスを持っていて、乗ったり、跨ったり、滑ったりすることをその形態のうちに孕んでいる。その一方で、公共の場としての遊園地は、ある種の社会性をこどもに学ばせるような「アフォーダンス」を孕んでもいるのではないか。こどもたちの遊びたいという欲望と社会性の対立。ある種の背反する2つの原理の中で、時として、親子の対立が生まれたり、家庭の持つエゴイスティックな側面が剥き出しになったりする。それに対しての「規制」や、今回のコロナ騒動もその典型であると思うのだが、ある種の「排除」のようなことも起こりうる。藍ちゃんの能天気でのんきな感じのイメージの向こうに、いま世界で起こっている様々な「対立」や「排除」や「暴力」を生み出す原初的な何かの影が写り込んでいる。
こどもという、無垢で、無前提に愛おしいものとされる小さな命の前で、「正義」の名の下に、さまざまエゴや、権力構造や、排除のシステムみたいなものが実は蠢いている。こどもたちが遊園地でとる身体の動きが、単に可愛く楽しく「正しい」だけのものではない・・・そんな含意を含んだ作品なのかな、と思った。最後の、えさを上げないでという掲示の前でハトにえさをあげる動作をしているのは象徴的だ。小さくて、か弱い命を生かそうとする欲望、しかし社会としてはそれがもたらす「害」によって、その小さな命を排除しようとする。どちらも小さな命であるハトとこどもが合わせ鏡になって、てんでに勝手なベクトルを持った遊園地のアフォーダンスの迷路の中で、なすすべなく、いつしか立ちすくむ・・・
でも、あとでこっそり聞いてみたら、藍ちゃんはアフォーダンスという言葉を知らなかった。ちょっと勝手に毒が回りすぎたか。
前橋に移住して、美術館の立ち上げにひょんなことから関わり、気づけば干支が一回りしていた。地方芸術祭が数多く開催され、華々しくみえる現代アートだが、この街には、そんな華々しい世界の対極で、自分たちの表現を地道に追求している者たちがいる。彼らに考えさせられ、振り回され、豊かな世界に導かれながらも経済的には迷走しつつあるような状況を、少しずつ記録に残していこうと思う。