【青森県】日本中央の碑歴史公園
場所:青森県東北町
時代:平安時代初期?
日本中央の碑
歴史の教科書にも載っていない、史実かどうか未だわからない出土物である。昭和24年に地元の人によって発見された、高さ1.5mほどの大きな石に「日本中央」と彫られた碑のこと。鎌倉時代の袖中抄という歌学書の中にある、平安時代初期の武人坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に、鏃で彫って書いたとされる「壺の碑(つぼのいしぶみ)」ではないかと調査されたが、結論は出ていない。無機物の石であるために炭素年代測定法が難しく、また発見時に文字の刻まれた部分をきれいにすべく擦りすぎたため、風化した部分が除去されてしまい、測定ができなかったという。
実際に発見場所の近くにある千曳神社では、坂上田村麻呂が石を埋めたという伝承が残っており、明治時代には神社で大規模な発掘作業まで行われていたが、何も発見できなかった。この石が発見されるまでは、壺の碑は宮城県多賀城市にある「多賀城碑」のことではないかと考えられてきたが、現在は碑文の内容からも制作された時代のずれ(多賀城碑は奈良時代の762年建立)からも否定されている。
しかし、そもそも坂上田村麻呂が東北地方に派遣されたのは胆沢城(岩手県奥州市)までで、この石碑のある青森県までは行っていないこと、碑文の「日本中央」の文字があまり達筆ではないことなどから、壺の碑説に疑問を持たれている。一方、本物であると主張する人は、確かに坂上田村麻呂はこの地まで行っていないが、同時代で後任の征夷大将軍であった文室綿麻呂は、蝦夷征討の際に当地まで達していたため、碑文を書いたのは文室綿麻呂であるという説もある。
自分としては、平安時代とはいえ武人が達筆である必要はないし、即席で鏃で彫ったものならこれでも十分きれいではないかと思えるし、史実から想像して文室綿麻呂作を推したい。なお、当時はまだ日本という国号は使用されておらず、平安時代は日本と書いて「ひのもと」と読み、東北地方を指していたことはよく知られている。
日本中央の碑歴史公園
発見されてからほとんど雨晒し状態だった石碑は、平成7年に日本中央の碑歴史公園保存館が建てられ、現在そこで保存展示されている。2020年11月の東北周遊の際にここを訪れたが、十和田市から野辺地町へ北進する、周囲はほとんど何もない国道4号線沿いにそれはあった。この碑を目的に訪れる人は、余程の歴史マニア以外あまりいないと思われ、広い駐車場の割に停まっている車はほとんどない。敷地は割と広いし休憩で駐車場に停まってみたら、珍しい石碑があるということで見てみようという人がほとんどだろう、などと考えていたら、なんとバイクで遠くからわざわざ石碑を見に来たという人に会った。
ところで保存館は小さいが結構立派な建物で、たったひとつの石碑のために、それもまだ歴史的に貴重なものなのかどうか不明なこの石碑のためだけに建てられている。中で見学していると、管理されている年配の方からいろいろ話を伺うことができたが、なんとこの方は前述の昭和24年に実際にこの石碑を発見された方である、川村種吉氏の親族の方だった。
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