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【フランス】カントヴィク(Quentovic)

場所:オー•ド•フランス(Hauts-de-France)県、フランス北部
時代:中世初期(6〜10世紀)

カントヴィクの町があったとされていた、エタプル(Étaples)およびモントルイユ・シュル・メール(Montreuil-sur-Mer)を訪れたのは2007年9月でした。カントヴィクは6世紀初頭、メロヴィング朝フランク王国を建国したクローヴィス1世の死後分割されたネウストリア領に含まれ、ここを受け継いだ王によって開かれて発展し、繁栄を続けてきました。しかし842年以降は、ヴァイキングによる襲撃およびカロリング朝の衰退とともに、11世紀初頭には消滅したと考えられています。この間、現在のオランダのユトレヒト近郊にあったドレスタッド(2023年6月10日投稿)の町とともに、フランク王国の一大貿易拠点であり、位置的にちょうど海峡を挟んでイギリスのケント州と面していることから、アングロサクソン人の商人や僧侶が大陸側のフランク王国やローマへ渡るための拠点となっていました。

エタプルの町
エタプルの市庁舎

現在のエタプルの町は、カンシュ川に沿ってヨットハーバーがあり、観光で特に見るべきものはないので観光客らしき人はほとんど見ませんでした。現代のカンシュ川は草に覆われた河川敷がかなり広くなっていて、水の流れは見えにくいのですが、カントヴィクの町が栄えていたころはもっと川幅が狭く、大きな交易船が通れるほどの深さがあったに違いありません。エタプルからカンシュ川を遡って少し行くと、モントルイユ・シュル・メールの町があります。カントヴィクの町があったラ•カロトリは、ちょうどエタプルとモントルイユの中間にあるのですが、旅行していた当時は全く知らなかったため、残念ながら立ち寄ることなく見過ごしてしまいました。ただモントルイユまでの途中で見るべきものは特に何もなく、いわゆる農地と湿地帯のような場所が広がっていたのは覚えています。モントルイユはエタプルより大きな町で、歴史的な見所である中世の城砦跡や古い教会がありますが、フランク王国時代のものは何も残っていません。しかし町にある小さな博物館へ行けば、この近辺、つまりカントヴィクから出土した金属製の武器や鍋釜、土器などの日用品、宝石をあしらった装飾品などが展示されています。

モントレイユ近郊 (現在のカントヴィク)
カントヴィク出土の装飾品 (6−10世紀)
カントヴィク出土の武器 (6−10世紀)

カントヴィクの町は、イギリスと海を挟んだドーヴァー海峡に近いフランス最北部に存在していましたが、位置ははっきりと特定されていませんでした。これまではカンシュ川の河口近くにある現在のエタプルの町あたりと考えられていましたが、1980年代の考古学的調査によって、実際はエタプルから少し東にある、ラ•カロトリ(La Caloterie)付近であることがわかったようです。私が以前読んだ本「フランス中世史夜話(渡邊昌美著•白水社刊)」の中で、海に沈んだ伝説の町イスの話が載っているのですが、実際に行方不明になってしまった町として、以下のようにカントヴィクが紹介されています。
『7世紀といえばローマ帝国の遺産たる街道と都市が衰えていく時期にあたる。ブーローニュはローマ街道の行き止まりの港町で、ここから英仏海峡を渡るのがいわば正規のルートだった。7世紀、ブーローニュは急速に衰亡したが、一般的な年没落傾向のほかに、海港の役割を新興のカントヴィクに奪われたせいらしい。イギリスで出土したカントヴィク貨幣の最古鋳造年代は625年、記録にカントヴィクの名が初めて出るのが668年頃。700年前後には、同市経由が大陸とイギリスを往来する標準的なルートになっていたと思われるふしがある。ところが、水没したのか、別の町に吸収されたのか、その後杳としてこの町の消息が知れなくなる。同市の刻印のある古銭出土地点の分布から推して、カンシュ河口の南、現在のモントレイユの近くにあったはずなのだが、まだ何の証跡も発見されていない。』
カントヴィクのように、昔存在していたはずの町が消えてしまったという話は、世界のあちこちで聞かれます。日本でも岐阜県の帰雲城や大分県の瓜生島が有名ですが、このような話はとても興味をそそられます。

現在のカンシュ川
カンシュ川河川敷
カンシュ川のヨットハーバー

文学のテキストの中でカントヴィクの町についての最初の言及は、当地のフランク人の記録より前に、アングロサクソン人のベーダによる「イングランド教会史」、ステファヌスによる「聖ウィルフリッドの生涯」の中で言及されていて、町があったことは確実です。
6世紀にこの町が建設された理由のひとつは、フランク人が他国との貿易のよって富を増やす必要があったことです。カントヴィクにいる商人は、主にフランク人、サクソン人、フリージア人で、彼らは港の機能を設置し、商品を保管するための倉庫を建設していました。主にイギリス•ケントのアングロサクソン人との貿易では、輸出品は織物が主でワインや石臼などもありました。ケントでは、メロヴィング朝フランク王国由来の8世紀初頭の陶器の瓶やグラス、織物、金貨などが発見されています。
カロリング朝時代になっても、カントヴィクは依然としてイギリスとの貿易の主要な貿易港のひとつでした。この間、港に対する王権はより強化されました。王国の他のほとんどの場所では、商人は税金の支払いを免除されていたのですが、アルプスの峠とドレスタッド、そしてカントヴィクではかなり高率の徴税がされ、これはフランク王国にとってとても重要な収入のひとつでした。港での税金がなければ、生涯を通じて戦争を行なっていたシャルルマーニュにとって、軍資金を調達するのに苦労したではずです。カントヴィクはまた、フランクの使節がマーシアのオファ王と外交を行うために出発した港でもありました。

カントヴィク出土の貨幣 (7−9世紀)
カントヴィク出土の装身具

カントヴィクの貨幣は町が存在したことを物語る、今日まで残っている最も有力な証拠となっています。カントヴィクで鋳造された最も初期の硬貨は、西暦560年代のもので、これらのコインには町の名前が刻まれています。7世紀後半から8世紀初頭にはカントヴィクの町はかなり繁栄し、シートまたはシャット(sceat、sceatta)と呼ばれる銀貨が大量に鋳造され、貿易に使われました。西暦751年にカロリング朝が引き継いだ後も、貨幣はピピン3世の下でカントヴィクで鋳造され続けました。しかしピピンの治世後、状況は突然変わったと考えられます。カントヴィク鋳造の貨幣で、シャルルマーニュとルイ1世の下で鋳造されたものは非常に少ないようです。このことから、カントヴィクがシャルルマーニュの時代になると経済的な重要性が低くなったことを示しています。その代わりに、銀鉱山で有名なメル(ポワティエの南西55km)をはじめ、大きな都市であるシャルトル、パリ、オルレアン、ランスといった場所が新たな貨幣の鋳造地となりました。
このことから9世紀の後半までには、カントヴィクは衰退していたと思われていました。しかし西暦864年、西フランク王シャルル2世は、文書によるカントヴィクへの最後の言及がされているピトル勅令を発しますが、勅令後はそれ以前よりはるかに多くの貨幣がカントヴィクで鋳造されました。この時鋳造された多くの貨幣から、カントヴィクが860年代から870年代にかけて、再び経済的な復活を遂げたという証拠となっています。しかし10世紀になるとカントヴィクの貨幣は再び減り、それ以降に書かれた文書がカントヴィクには言及していないということで、この町は再び衰退してしまったと考えられています。現在発見されているカントヴィク鋳造の最後の貨幣は、西暦980年となっています。

モントレイユの町
モントレイユの城砦跡 (カントヴィクよりずっと後の時代のもの)
モントレイユのサン・サルブ修道院教会 (12世紀)

その後のカントヴィクが完全に放棄された時期を特定することは難しいようです。町は842年にヴァイキングによって襲撃され、その後も襲撃は続きました。ヴァイキングによる継続的な襲撃はカントヴィクの経済活動を妨げたため、商人たちはより安全な場所を求めて去って行きました。10世紀には、イギリスへアクセス可能でより要塞化された港、モントルイユ・シュル・メールやサントメールなどに取って代わられたと考えられています。外敵による襲撃以外に、カントヴィクが衰退した原因として考えられるのは、洪水や海面上昇が挙げられます。また時代とともにますます大きくなる船が港に停泊することも困難になったかもしれません。カントヴィクの港町の終焉については謎のままですが、徐々に放棄されていったと考えられており、そして11世紀初頭には完全に失われてしまったとされています。


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