【宮城県】多賀城碑
場所:宮城県多賀城市大字市川
時代:奈良時代または江戸時代初期?
日本三古碑のひとつで、陸奥国国府であった多賀城創建(724年)と、その後の建物の修築を記した碑文が刻まれており、碑の建立は修築された762年とされている。碑文の内容は、前段が奈良平城京、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨(渤海)国それぞれから多賀城までの行程、後段には多賀城設置や修築に関わった人物について記されている。石碑は江戸時代初期に土中に埋もれていたのを発見されたらしく、坂上田村麻呂が彫ったとされる、平安時代から和歌の歌枕として有名な「壺の碑(つぼのいしぶみ)」ではないかと言われてきた。ただ碑文の年代は、田村麻呂が活躍した時代よりもっと前のものなので、彼も多賀城に立ち寄った際にこの碑を見た可能性はあっても、彼の制作ではありえない。このような説が広まり、江戸時代からすでに碑は多くの学者が研究し、また保護のため覆堂に入れられており、元の多賀城南門前に置かれている。奥の細道の旅の道中である1689年、松尾芭蕉もこの碑を訪れている。
真贋論争
ところで江戸末期から明治にかけて、碑文の内容が他の資料と食い違う部分があったことから、この石碑の真贋論争にまで発展した。しかし1963年に多賀城跡の発掘調査が行われ、8世紀半ばに大規模な改修工事が行われていたことが明らかになり、これが碑文後段の内容と合致し、他の資料にはない情報であったこと、また文字の配置に天平尺が使われていたことや、石刻の技法が古代のものであることがわかり、現代では碑は奈良時代の本物と確定し、重要文化財に指定されている。また1997年には覆堂の解体修理が行われ周囲の発掘調査を行った結果、古代に石碑を据え付けたと思われる跡が発見され、碑は当初からこの場所にあった可能性が強まった。
この碑を実際に見学したのは、まだコロナ禍で旅行しづらい2020年10月だった。仙台から岩手県、青森県まで行き、また仙台に戻ってくるというレンタカーでの旅行だったが、多賀城の史跡はJR国府多賀城駅から歩いてすぐのところだったので、レンタカーを借りる前に電車で行き、仙台への帰りは同じ駅ではなく、南の方に歩いて、東北歴史博物館(碑の複製品あり)、多賀城廃寺跡、多賀城市埋蔵文化財調査センター(ここにも碑の複製品あり)に立ち寄って、JR多賀城駅から仙台に戻った。
この碑を見るために多賀城に立ち寄ったのだが、碑について特に勉強したわけでもないので、当然のように多賀城が機能していた奈良時代のものだと思っていた。しかし、ある本(真贋論争「金印」「多賀城碑」安本美典著・勉誠出版)を読んでからは、この碑が奈良時代のものなどではなく、ずっと後の江戸時代初期に作られた偽作ではないかという疑念は大きくなってしまった。本の中ではいろいろな方面から検証されており、登場人物の官職や改修のこと、文字の配置など論破されているが、石刻技法と台座跡については言及されていなかったので、自分のような一考古学ファンとしては今後の研究が待ち遠しい。しかしいずれにせよ、やはり著者の調査の結果である、碑文の中の4文字「此」「從」「西」「四」が決め手となって、自分としても偽作ではないかという疑念を持つようになった。しかもこの碑がある多賀城は元仙台藩伊達家所領であり、そのルーツ(藤原氏)から、偽作を行った(命じた)のは伊達正宗であった可能性についても言及されている。このハードカバーの本、2800円と決して安価な本ではないが、同様に偽作疑惑に揺れた漢委奴国王の金印についても書かれているので、読んでみて自分なりの推理を巡らせてみてはどうかと思う。