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【ブルガリア】ブルガリア国立考古学博物館(キリル文字)

場所:ソフィア
時代:9世紀ごろ

ブルガリア国立考古学博物館正面
博物館前に置かれている古代の十字架のレリーフ

ブルガリア国立考古学博物館は首都ソフィアの中心部にあり、もとはオスマントルコのモスクだったもので、建物だけでも歴史的な価値がある。この博物館の有名な展示物としては、古代トラキアの黄金製品などがあるが、ここではスラブ諸言語に用いられているキリル文字が、ブルガリアの地で誕生したことについて述べてみる。
西欧の言語を表記する文字の代表的なものとしては、もちろんローマ字(ラテン文字)があるが、ロシア語に代表されるスラブ語圏では、キリル文字を使用している国も多い。その他スラブ語ではないが、カザフスタンやキルギスタンなど旧ソ連の国や同じ共産圏だったモンゴルなどでも使用されている。
さて、ソフィアを訪れたのは2018年6月だったが、結構雨の日が多くて街を散策するのに難儀した。街そのものは割とコンパクトで、観光するには天気が良ければ徒歩で十分だと思う。そのほかブルガリア国内で訪れた場所は、ソフィアから少し南のリラ修道院と、中部の街プロブディフだった。

博物館の内部

ラテン文字とギリシャ文字
ラテン文字の歴史はかなり古く、起源は紀元前1000年ごろのフェニキア文字で、その後継としてギリシャ文字ができ、そして紀元前7世紀ごろにローマに伝わりラテン語の文字として改良され、その後のローマ帝国の拡大とともに各地に広まった。
一方、もうひとつの重要な言語であるギリシャ語は、マケドニア王国アレクサンドロス大王の東征によって、ギリシャ本土から遠く離れた現在のアフガニスタン方面にまで広がり、ヘレニズム国家のバクトリア王国などで使用されていたが、2世紀初めごろには遊牧民の侵入による王国の衰退とともに消滅してしまった。しかしギリシャ語はローマ帝国時代も、文学や教養のために主に上流階級の間で盛んに学習されていたが、ローマの東西分裂後、蛮族の侵入により西ローマは荒廃してしまったため、コンスタンティノープルを中心とする東ローマ(ビザンティン帝国)の公用語として、その後の1000年間にわたって重要な地位を占めることになった。
キリル文字の発祥は、そうした西方と東方に分かれたキリスト教の狭間で考案されたグラゴール文字を基礎に、ギリシャ文字を加えて改良されたものであるが、その間には文字を持たぬスラブ民族へのキリスト教の布教に活躍した、当時の宣教師たちの並々ならぬ苦労があった。

キリル文字以前

左:博物館に展示されている当時の聖書など、右:グラゴール文字とキリル文字

現在のスラブ語にはロシア語、ウクライナ語、ポーランド語、チェコ語、セルビア語、ブルガリア語などがあるが、9世紀以前にはこれらの言語の祖先である古代スラブ語というものがあった。しかし文字が存在せず、古代のスラブ民族を知るためのスラブ語の文献は残っていない。
文字が作られるきっかけは、9世紀後半になってモラヴィア国(現在のチェコ東部)においてキリスト教の布教が始まったことにある。一般民衆に向けて布教するためには、現地の言葉による聖書などの読み書きが必要となる。そこで白羽の矢が立ったのは、コンスタンティノスとメトディオスというテッサロニキ出身のギリシャ人兄弟の修道士だった。モラヴィア王がビザンティン皇帝ミカエル3世に、自国にキリスト教を布教するにふさわしい人物を要請し、皇帝とコンスタンティノープル総主教がこのふたりを選任した。
スラブ語を書くための文字はコンスタンティノスが考案したとされている。なおこのとき作られた文字は、ギリシャ文字を基礎にした「グラゴール文字」というかなり複雑な体系の文字で、覚えるにはかなり苦労しそう。グラゴール文字のほか、エジプトの象形文字やメソポタミアの楔形文字も複雑だが、西欧人からみれば漢字も相当なものだと思っているだろうが。

キリル文字誕生
当時、西方教会の影響が強かったモラヴィアにおいては、教会の典礼で使用される言語はラテン語であり、スラブ語は受け入れられなかった。それにもかかわらず兄弟修道士はスラブ語での伝道を続けていたが、コンスタンティノスは869年にローマで客死、兄メトディオスは後に大司教にまでなったが885年に亡くなる。ちなみにキリル文字という呼び方の由来は、コンスタンティノスが晩年にキュリロスと名乗っていたことによるもので、ロシア語やブルガリア語式に言えばキリルとなる。しかし実際にコンスタンティノス(キリル)が作ったのはグラゴール文字のほうで、キリル文字はその弟子たちによるものである。モラヴィアなど西スラブ地域では兄弟の死後は、フランク教会やローマ教会の迫害により、その弟子たちの布教はかなわず、彼らは新興国ブルガリアへ逃れた。
もともとブルガリア人(ブルガール人)というのは、中央アジア方面にいたトルコ系遊牧民族だったが、7世紀からは黒海西岸あたりにいた別の遊牧民族アヴァール人を駆逐して、その地域に進出していた。しかしブルガリアの住人は圧倒的にスラブ人が多く、少数派の支配層ブルガール人は生活や言語までも、次第にスラブに同化していった。当時ブルガリアは強大なビザンティン帝国と敵対していたが、対決を避けるため講話を模索し、王(当時はボリス汗)自身ががキリスト教徒となり、ブルガリア国内の教会を東方教会に所属させることなどを承諾した。そのような状況の中、モラヴィアを追われていたメトディオスとコンスタンティノスの弟子たちは、ブルガリアに到着しボリス汗から厚遇を受けることとなった。
この後、9世紀末にキリル文字が誕生することになるが、きっかけはやはりグラゴール文字の複雑さにあったと考えられている。そこでグラゴール文字を単純化し、それとスラブ語の発音に沿うようギリシャ文字を改良したものを加えて新たにキリル文字を創り出した。一方、キリル文字に取って代わられたグラゴール文字は滅んでしまったのかといえば、ダルマチア地方(現在のクロアチア沿岸地方)では、20世紀の現代に至るまでグラゴール文字のスラブ語典礼書が用いられていた。

古代ブルガリアの貨幣
ブルガリア国立考古学博物館の位置

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