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【高知県】純友城跡

場所:高知県宿毛市大深浦城ヶ山
時代:10世紀(平安時代中期)

林道から純友城のある松尾峠へ向かう

高知県南西部の宿毛市内にあった古城で、最も古いといわれているのは、藤原純友が天慶時代(938年頃)に築いたといわれている、松尾峠の西南方の山の上大深浦の城ヶ山にあった、松尾城(別名が宿毛純友城)です。もう1つは、平安時代末期の応保時代(1161年頃)に、平清盛の嫡男である平重盛の家来、平田太郎俊遠の居城だったといわれている平田城です。その他にも宿毛市内には、50余りの城があったといわれていますが、その多くは戦国時代のもので、歴史について詳しくわからないものが多いようです。

松尾峠付近の街道 (土佐藩と宇和島藩の藩境)
松尾峠
松尾峠案内板
17世紀の藩境を示す石柱

松尾坂の峠には貞享の時代(1684~1688年)に立てられたという2個の石柱があり、「従是東土佐国」「従是西伊予国宇和島藩支配地」の文字が刻まれていて、伊予と土佐の国境であることを示しています。この標柱の南西あたり、谷を隔てて約200mのところに2つの嶺が続いた山がありますが、この標高330mほどの山頂の南側の嶺が純友城跡になります。ちょうど宿毛市の宇須々木港の背後にあたり、前方は宿毛湾を一望に見下ろせる位置にあって、しかも木々が生い茂って傾斜は極めて急で、外部からは容易に発見できない場所であり、文字通りの要害堅固の地と言えます。松尾坂の街道、といっても廃れた古い山道ですが、街道から純友城へ向かう細い山道へは、丁字路にある小さな案内板に従って行けばたどり着くことができます。坂道で舗装などされていませんので、雨天時や雨上がりのときは難儀するかもしれません。

松尾峠から純友城へ向かう細い山道

城跡には1アールくらいの平地が3か所段々になっていて、周囲には純友の時代のものかどうかははっきりしていないとのことですが、石垣の跡がいくつか残っているらしいです(私にはわかりませんでした)。これも私にはわかりませんでしたが、頂上付近には石を70cm四方の四角形に置いたところや大小の石を積み重ねた所もあって、古い墓石にも見えるところがあるそうです。もしこれが墓石だとすると、どれかが純友の妻の墓であるのかもしれないとのことです。現在ここには木組みの舞台のような見晴台があって、眼下に広がる宿毛湾を見渡せるようになっています。

純友城跡
純友城跡の展望デッキ

藤原純友については、戦国武将や幕末維新の志士ほど有名ではなく、瀬戸内を荒らし回った海賊という程度にしか知らない人も多いと思います。今日で最終回のNHK大河ドラマ「光る君へ」の準主役の道長も直接的な繋がりはないそうですが、純友と同じ藤原北家の出なのですね。藤原氏の系図は複雑すぎて、どういう関係だったのかは敢えて書きません。時代も同じ平安中期ですが、純友の死後25年経ってから道長が生まれているので出会ったことはないですね。そういえばまだ子供の頃ですが、1976年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で、俳優の故・緒形拳さんが藤原純友役で出演されていたのを思い出しました。

純友城説明板

純友の生まれ故郷ははっきりしませんが、伊予国(6月23日記事「【愛媛県】藤原純友居城跡」で書いたように、伊予大洲か?)だという説が最も有力とのことです。前述のように藤原氏の中で最も栄えた藤原北家の出身で、大叔父には藤原基経がいますが、早くに父を亡くし、都での出世は望むべくもなく地方官となりました。当初は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従い伊予掾として、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にありました。帰任後に海賊追捕宣旨を賜り、承平6年(936年)3月頃に再度伊予国に下向しました。関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして、瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、純友の勢力は畿内に進出し、天慶2年(939年)には摂津国において備前国と播磨国の介(国司の次官)を捕らえ、翌天慶3年(940年)には、淡路国、伊予国、讃岐国の国府を襲撃し略奪を行いました。その後は瀬戸内海を転戦し、天慶4年(941年)5月にはついに大宰府を陥落させました。しかし朝廷は、純友追討のために追捕使・小野好古、次官・源経基らの兵を差し向け、博多湾の戦いで純友の船団は追捕使の軍によって壊滅させられました。純友は敗れた後、九州の太宰府に逃れ一時は勢いを盛り返しましたが、小野好古は陸路から、藤原慶辛等は海上から純友軍を博多で攻めました。この博多湾の大合戦で、純友の本隊は800余りの船を奪われてほとんど壊滅の状態に陥り、純友とその子重太丸はかろうじて伊予国に逃げ帰りました。しかし天慶4年6月中旬には警固使の橘遠保に捕われて、6月29日に獄中で死んだとされています。また別の記録である「日本紀略」によれば、遠保が純友を殺害したとあり、「大日本史」には斬られて首を京都に送られたとなっています。純友以下一族は残らず討ち取られ、子の重太丸も京都で斬られたとの報告を聞いた妻は、悲しみの挙句気が狂い、天慶4年(941年)8月16日に死んだと「前太平記巻11」に記されています。

純友城から眺める宿毛湾
純友城からの周囲の山の眺望

承平・天慶の乱の首謀者である東の平将門ともう1人、西の藤原純友が2年にもわたる反乱の後、小野好古に攻められて敗れ伊予の日振島から撤退する際に、この松尾城に妻を隠した場所として伝わっています。「編年紀事略」の天慶4年(941年)8月16日の記事には「純友カ妻土佐国幡多郡松尾坂ニ憂死ス、栗山将監入道定阿亦虜トナル、定阿ハ純友カ妻ノ父ニシテ重太丸カ祖父也」という記述があるそうです。

Googleマップにはまだ「純友城」が示されていないので、すぐ側の「松尾峠」を出しています。

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