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窓の外の少年

 昼日中にあってもその光は部屋の中までまぶしく照らした。わたしは「またか」と思って無視を決め込もうとしたけれど、その光が二度目三度目と続くと、さすがに放っておけない。わたしは作業の手を止めて立ち上がり、窓の方へと部屋を横切る。窓の外ではまだぴかぴかと光が瞬いていて、鍵に手を添えた時に、相手はこの瞬間を狙っているのだとわかってるから憂鬱になる。
「おやめなさいな」窓を開いて声をかけた瞬間に、ひときわあかるい光が瞬く。構えたカメラの向こう側に、もはや見慣れた栗色のショートカットが揺れていた。この瞬間を待っていただろうに、いざその瞬間が訪れるとカメラの持ち主はまともに狼狽して顔を真っ赤に染め上げる。しばし動きを硬直させ、レンズ越しではなくその目で私をじっくりと見つめる。
(気味が悪い)
 正直な感情は喉の奥に飲み込んだ。相手は少年、まだ子供なのだ。
 しかしその少年がやっていることはカリカチュアされているだけで明確に大人の真似事だった。
 わたしの気を惹くためにフラッシュをたき、レンズ越しにわたしを待ち受け、わたしの姿を認めてとがめられていることを確かめたら今度はわざとらしく顔を赤らめてみせる。まるで安物の舞台演劇みたいに類型化された陳腐なパターンを、この少年は寸分もたがわずトレースする。
 その一連の動作を終えた少年は今度は「ごっ、ごめんなさい!」と叫び、未練がましい長し目を残しながら一目散に通りを駆けだす。彼の後ろを、緑色の球体多機能モジュールが飛び跳ねながら追いかける。そのコミカルささえわざとらしくて、わたしは品のない舌打ちを口の中だけで響かせる。撮った写真を少年がデスクトップにでも張り付けているところを想像すると、気持ち悪さに身の毛がよだつ。
 通りの向かい側では、パン屋のおじさんがとがめるような視線を、わたし、に向けていた。いちど、わたしは彼に相談した。「あの少年、どうすればやめてくれるでしょう?」パン屋のおじさんは、「かわいいもんだよ。あの頃の男の子はみんなそうだ。この町一番のお嬢さんを好きになるなんて、ちょっと贅沢だけどね」
 男の子はみんなそうだ。つまりは許してやれ。わたしはその言葉に、なにか厳しい物言いで返した。もうその中身は覚えていない。でも、冗談ではないと本気でその時のわたしは怒っていた。それ以来、パン屋のおじさんは少年の味方だ。

 少年からメールが届いていた。街のはずれでなにかを見たらしく、近いうちに何かが起こるだろうとあいまいな警告が書いてあった。続けて、わたしを心配しているというとってつけたような一文。なんて不愉快なのだろう。あなたを心配しているのよ、心配、心配。その言葉はわたしを見張り、束縛し、押しつぶすときにだけ使われる。男の元へ行ってもう何日も家に帰ってこない母が久しぶりにわたしの顔を見た時。反抗的な態度をとったわたしに苛立った父が平手でなぐった時。わたしを盗撮した少年が自分の周辺で起こった出来事をわたしに報告する口実を作る時。心配。あなたのことが心配なんです。
 わたしは机の上のチョコレートをひとつぶ手に取る。わたしが少年だったらどんなによかっただろうか。少年ならば、年上の女性を盗み撮りすることが許される。少年はなんでも許されるからだ。わたしが父を殴り返してもきっと許されないけど少年だったら許される。「あなたも大人になればお母さんの気持ちがわかるよ」と母は言った。わたしに許されるのは大人になって女になって男の家に入りびたることだけだ。少年だったら大人になって男になって女の家に入りびたることももちろん許される。わたしに与えられた数少ない選択肢も、少年にとってはつまらない寄り道にすぎない。
 父が取引先からこっそり譲ってもらったという本物のカカオを使ったチョコレートを口に放り込む。高濃度のカカオの苦みにわたしは顔をしかめる。これならにきびができにくいんだ、本物のカカオだからね。わたしの顔を見てにやにやと笑う父の顔。どちらの顔もりっぱに醜い。「あなたはすごく……綺麗です」少年が顔を赤らめて窓の外から、にきびを気にするわたしに告げた。彼はわたしの顔を批評できる、彼はなぜなら少年だから。
 ああ、少年。君の栄華はただただ少年であることによる。でもきっと君はいつか、すべて許されるその少年性に苦しめられるだろう。老いたものは君に人殺しをさせても、少年だから許されるのだと君を死地に追い込む。すべてが許されるのが少年だから、老人は自分も許されたと思っておだやかに死ねる。この世には少年と少年以外がいる。その境界にあらゆる理不尽を流し込んで、世界を地獄にするための。
 カカオの苦みが口の中いっぱいにねばついて広がる。遠くから、たくさんのローターが回る音が重なって聞こえてくる。境界から溢れた理不尽がなだれこみ、戦争がこの地にやってくる。


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山田集佳
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