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『ファーストキス 1ST KISS』観たよ
坂元裕二と塚原あゆ子がタッグを組んで主演は松たか子、すごい座組の恋愛映画だ。夫の松村北斗を事故で失った松たか子が15年前のある一日を何度も繰り返して死の運命から助けようとする。『ミッション8ミニッツ』みたいな話。坂元裕二は『片思い世界』も公開を控えているけどどっちもSFっぽい感じなのがなんか不思議。あんまりそういう作家というイメージもないので。
SF的要素のある一本のお話としては結構気になる点が多くて、その点はタイムリープラブコメとしては致命的。これは撮り方の問題もあって、タイムリープコメディの定番である繰り返しギャグも、面白いは面白いのだが編集はなんか妙にのっぺりしていて繰り返し特有のテンポの面白さはあんまり感じられない。繰り返しギャグより松たか子が犬にめちゃくちゃにされているところのほうがおもろい。個人的には私は映画作家の塚原あゆ子としては『わたしの幸せな結婚』みたいな伝奇もののちょっと現実離れした映画の方が好き何だろうなあと気づいた。ただ、是枝監督の『怪物』も「こういう話じゃないのでは?」と思ってしまったので、作家性の強い映画監督は坂元裕二の強すぎる作家性とかち合っちゃいがちなんじゃないかな~と最近思ってる。
あと、坂元裕二といえば人間関係の些細なささくれを強烈なパンチラインですくいあげていくことが最大の得意技だけど、そういうパンチラインは今作みたいな優しい雰囲気の作品だとちょっとパワーが落ちるような気がした。なのでこの映画のいいセリフの一つ一つも、「通常はそんな言い方をしない……」とちょっと気になった。片方の靴下とか全然ピンと来なかった。やっぱりパンチラインはギスギスした中でこそ輝くもの。「もうパズドラしかできない」とかね。そう考えると私はフィクションではギスギスした人間関係をこそ見たいのかもしれない……。
最初は別に松たか子はタイムリープしていないんじゃないかなあと思って観ていた。そのくらい、この映画は徹頭徹尾、設定についてつべこべ説明するくらいならもっと描きたいことがあるんやでと言いたげなので。タイムラインを整理するための付箋のオブジェもなんかわかりにくいし。でもその割には松たか子がタイムリープに身を乗り出すまでの段取りはきっちりやっているので不思議な味わいになっている。でもこの映画はSF的な仕組みのあれやこれやにはマジで興味ない。どれくらい興味がないかというとドラゴンボールのトランクス(未来)の設定くらい興味ない。タイムパラドクスを避けるために「この時代の悟空を助けても僕の時代は何も変化ないっす」とあっさり言うトランクス。しかし過去で強敵との戦いを経たトランクスは未来に戻って人造人間を瞬殺できるようになっていた。この映画もそういう映画です。いやこれはマジ。未来を変えられないけど松たか子が得た経験は松たか子の人生を変えた。トランクスが未来を変えた話は番外編的に描かれたけど肝心の松たか子のその後はこの映画では描かれない。大事なのは人生の見方が変わるってことで、松たか子の後悔はその時点で成就しているから。繰り返しのタイムリープの中で松たか子は自分の後悔、松村北斗との結婚生活への後悔に納得できたのだ。あの最後のファーストキスで。
けっきょく松村北斗の死は変わらないんか~いとか、松村北斗の結論が松たか子にもっと優しくするなの、あまりにも松たか子に都合のいい結論過ぎない?とかいろいろ気になる部分はあるし、その点で賛否が分かれている。でも、その辺のもやもやは、「この映画の主役は松村北斗。松たか子ではない」ということに気づくといろいろすっきりする。
その証拠というわけじゃないけど、この映画はまず松村北斗が電車にひかれる瞬間から始まる。このシーンは松たか子は見ていないシーンなので、松たか子が想像しているのかなと思うが後半になると違うんだなということがわかる。主人公の視点から物語が始まるのは当然なので。愛し合って結婚したはずなのに生活を共にすると相手の嫌なところばっかり見えてくる。仕事が忙しくなるともう地獄だ。家の中に自分をいらだたせる存在がいる……そうだ別れよう、離婚!ということで二人の関係は冷え切っている。松たか子視点では松村北斗が勝手にシングルベッドを買って自分の部屋を家の中に作ってしまってそこにこもるようになってしまったのが二人の関係性の終わりを決めた決定的なきっかけに見えている。松たか子はタイムリープでいろいろ松村北斗の生活とか行動を変えようとするけど一番致命的なのはそこ。なので松村北斗がいかにその行動をとらないように15年間頑張るか、というのがこの映画の真の物語なのである。自分が死ぬのをわかってて生きる、愛する人を愛しぬいて生きる。そのための松たか子だ。
この映画はとにかく「天真爛漫な松たか子が目の前に現れたら好きになっちゃう」という確信に貫かれている。これは危険だ。『薬屋のひとりごと』の猫猫を全10代女子が真似するように全40代女性が硯カンナの真似をしてしまう。松たか子のふるまいの魅力にはそれくらい破壊力がある。私が硯カンナの真似をし始めたら迷わず関節を極めてほしい。マジでこの映画の松たか子の魅力と松たか子を「信じる」スタッフたちの気持ちがすごい。そして松村北斗(真の主役)のモチベーションとして設定されるのが松たか子だ。こんな素敵な相手と出会ってしまったら、たとえ死の運命が待ち受けていようとも残された15年を必死に生きるに決まってる。しかも観客はそんな松たか子が何十回もタイムリープして松村北斗を助けようとした頑張りを観ているのだから。この映画、前述したようにSF的な精密さはなく、もっとも大きな疑問「いや言うても松村北斗はベビーカーが落ちないように気を付ければいいだけやん……死ぬ必要なくね?」という部分は放置する。このことが気になって最後まで没入できない人もいるだろう。でも重要なのは松村北斗がいかに松たか子、というか愛する人を愛しきるかが重要なのでそれでいいのだ。松たか子が同じ一日を何度も繰り返したのをなぞるように松村北斗は15年間をやり直していく。時間のスケールは違うけれど、松たか子の努力と松村北斗の努力は意味としては同じものだ。
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だからこの映画は夫婦それぞれのやり直しを描いているともいえる。そして、人生を生ききる人の姿が最も大きなテーマとして設定されている。だから「家族をないがしろにして見ず知らずの人を助ける」松村北斗の人生は肯定される。「あんなに素敵で優しかった松村北斗が命懸けで赤ちゃんを助けた」となってその死の意味すら変わる。松村北斗の死後に届いた餃子の意味が、最初と最後で全く変わったように。二人がいた時間の中身が違えば、同じ出来事でも見え方が変わる。この映画のいちばんのテーマがそれだ。電気をイヤミったらしく消す消さないみたいな話も、たぶん関係性が良ければ気になんなくなるだろうしなあ。
だからベビーカーが線路に落ちるというのは不変の出来事となる。それはSF的な設定の要請というよりは映画が描くと決めたテーマがそうさせるのだ。描きたいテーマのため人間の運命を定める。どんな創作物もある程度まではそれをするけど、このあたりのさじ加減が坂元裕二の作家性なんだろうな~。
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