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第九章 クオリア問題『現文十五の階段』
遠く西の空が夕焼けています。
あの夕焼け空の下に行くと空は何色かわかりますか。
夕焼け空の真下にいるひとの上空は青空です。夕焼けを、空の真上、上空で見る経験はないはずですよね。夕焼けは大地とパラレル、ほぼ真横にしか見ることができません。地上にはさまざまな塵やごみが浮いていて、青いひかりとか黄色いひかりはその塵などのせいにより遠くまで届きません。が、赤いひかりは遠くまで見えますから、けっきょく夕焼けになります。信号機の赤が止まれというのもその理由です。よく見えますから。あまりいいたくないのですが、夕焼けとは空気のよごれの前景化なのです。
しかし、わたしたちが、赤色だというその赤が、となりのひともおんなじ色に見えているのか、じつはエビデンスがありません。恋人とイチョウ並木の下を歩くときに吹く風の気持ちよさもおんなじかどうか、わかりません。「素敵なお花畑ね」なんて言われて「うん、きみのおもう素敵とぼくの感じることっておなじじゃないかもな」など言ったら、まず嫌われます。
人間の感覚的な意識や体験はひとによって違っているのか、おんなじなのか、それもわかりません。その「痛い」とか「わくわく」とか「うまい」「素敵」とか、そういう感情をまとめて「クオリア」といいます。ラテン語の「質」という意味からうまれた語彙です。
吉野家の牛丼、「うまい、安い、早い」とかいいますが、どんなうまさなのか、どのくらい安いのか、どれだけを早いと認識しているのか、ひとそれぞれで、また、脳のどの部分が反応しているのか、それもまだつかめていない難問なのです。解決できない難問、つまり「アポリア」なのです。
牛丼うまいっすね、といっても、わたしの認識する脳の部位と「そうだなあ」と、うなずいているとなりのおじさんの脳の部位とおなじかどうか、それもわかりません。また、もしかすると、クオリアを有しているのはわたしだけで、となりのおっちゃんは、そうおもいこんでいるだけで、じつはクオリアを持っていないかもしれないのです。
恋人が「素敵なお花」と言っているけれど、じつはそうふるまうだけで、じつはクオリアをもっているのはわたしだけかもしないのです。このようにクオリアのないひとを「哲学的ゾンビ」と言います。そして、クオリアはわたしだけしかないとかんがえるのが「独我論」です。やはりアポリアです。
視覚障害になり、ものが見えなくなったひとがいます。が、そのひとは見えなくてもひかりのあるほうを指呼することができるそうです。あるいは鉛筆がどっちに向いているかもわかる。そういうひとがひとりやふたりではないらしいのです。これを「妄視」というのですが、つまり景色がみえるというクオリアがなくても生物は視覚情報を処理することが可能なのです。
それは、脳が勝手にものがたりをつくりだす、ということにもつながります。ひょっとするとさまざまな情報をもとに脳が都合よく作り出した世界をクオリアとして感じているだけかもしれないのです。
たとえば、神経科学者の金井良太博士が考案した作品「ヒーリング・グリッド」が好例です。黒い画面に無数の白抜きの十字架があるのですが、画像の真ん中はちゃんとした十字なのですが、四隅にいくと十字架がゆがんでいます。が、われわれはその画像の中心をみていると、おもしろいことにゆがんだ十字架がちゃんと整列しているように見えてくるのです。
これはわたしたちが、ごくしぜんに画像を修正して見ているようになる、つまり、勝手にものがたりを構築してしまっているのです。
ただしくものを見る、ということの難解さがこの例からもわかるとおもいます。「あばたもえくぼ」なんていうことわざがありますが、まんざら嘘ではなさそうです。「なんとかも三日で慣れる」ともいいますが、わたしたちは彼女への好意からそのひとを補正して見ているのかもしれません。でも、それでいいんです。その補正が真実なのです。
ちなみに一九二〇年代に論理実証主義がたちあがります。ヴィトゲンシュタインなどがその旗頭ですが、ものごとは実証されなくても公理論的前提と公認された推論、規則から積み上げられた定理はすべて真実であるという思考なのですが、ざんねんながらクオリアには言及されませんでした。
クオリア問題、いわゆる意識哲学には「機能質」と「体験質」とにわかれます。機能質とは、ひとにとってこころとはなんなのか、という前段にたちもどらなければなりません。機能質とは、道具に呼びかけられ、こころがなにを可能にしているかを問う領域です。
疲れたから椅子に座るのではなく、椅子に呼びかけられて座る、というものの見方です。これを、ジェームス・ジュローム・ギブソンは「アフォーダンス」と呼びました。かれの造語です。
前述しましたが、恋人と黄色く染まったイチョウ並木を歩き出す。と、恋人の声、手のぬくもり、石鹸のかおり、舗道にただよう秋の深まり、こういう要素によってこころが動き出す、あるいは、恋心がつのる、これこそがアフォーダンスそのものです。
机にクレヨンがある。それまでその気がなかったけれど、じゃ画用紙に描いてみようかな、なんておもう。これもおなじことです。
なんで食卓にケーキがあるんだろう、食べようかな、など、ついさっきまで甘いものなど気にもしていなかったのに。
しかし、いまの若者は、アフォードしなくなっています。その典型として、恋愛からの退却がはなはだしいといわれています。
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