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第五章 閉塞『現文十五の階段』

現代人は閉塞感にさいなまれている、などと言われています。ひとが幸せになるための世の中がはたして実現しているのか、あるいはそうではないのか、二十世紀までさかのぼってかんがえてゆきましょう。
 
現代、資本はどんどん増殖しているのにたいして、はたして精神的な充足があるのか、ということが前段にあるのですが、十八世紀、シュライエルマッハーという神学者がインテリクチャリズム、いわゆる「主知主義」とボランタリズム「主意主義」とに世界を二分してかんがえました。

宮台真司さんの説明だと、主知主義というのは制度に従っていれば幸せになるという考量で、それに対して主意主義というのは制度に隷属したところで幸せは訪れない、という生き方です。これが日本を代表する社会学者の説明です。主知主義的な生き方は、けっきょくシステムに依存するので、ひょっとすると積極的な生き方とは乖離して下手すると思考停止をまねくかもしれません。そして弱者にたいする容認もとうぜんなくなります。つまりは世の中ばらばらになって、人倫の世界はおわるかもしれません。

はたしてそうでしょうか。
 
十九世紀のおわりころから活躍したマックス・ウェーバーはニーチェのつよい影響化にあり、ウェーバーの没主体、いわゆる「鉄の檻」という術語はこの主知主義からの発想だったのでしょう。「鉄の檻」つまり、力をうしなった人びとのいる世界のことです。

じっさい、近代化というのはシステム依存の合理化であり、計算的です。計算可能性化すると複雑なシステムを営めるようになり、莫大な資本を流し込めるし、行政機構としての官僚制は、この計算可能性をもとに進歩と生産性を向上した原動力にもなったのですが、それだけが邁進すると人間が置いてきぼりにされてしまうのです。システムに服従するわけですから。ようするに合理化が進めば進むほどノイズは人間ということになってしまうのです。

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