第四回アラザル読書会『獣の戯れ』(三島由紀夫 著)抄録

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開催日:2020年9月26日
出席者:諸根陽介 西中賢治 杉森大輔 近藤久志 西田博至


★よかったシーン
近藤 すごくいいと思った場面。スパナで頭をぶつところ。それまで高踏的だった逸平が修羅場で露呈したしょうもなさ。
西中 ベッドから半身を起こす逸平の態度もしょうもないが、泣き崩れた優子にも幸二は憤っている。
近藤 その逸平をスパナでなぐることで救ってあげた。岩松了的な劇的場面。
近藤 もうひとつのいいところは優子がヘアピンで喜美を刺すところ。あそこは活劇。キャスティングするなら優子は二階堂ふみ。
西田 俺は今日マチ子。
西中 和服を着た岡田茉莉子 。
西田 最後の美しくない優子の描写がひどい。そこは演じるなら藤山直美。
近藤 それまで優子は魅力的だったのに、民俗学者はクソ。
近藤 蚊帳に近づいてきた優子は逸平に見られたがってた。しかし幸二は一旦拒絶する。そこの流れもすごかった。

★人間と物質
西中 喜美のエピソードには物語からはみ出すものがある。章の最後で、下駄とサンダルが不気味な物象の大群の中へ溶け入ってしまう様は、人間だったものが死んで肉になるという死生観では。
近藤 スパナが出てくる部分も物象という言葉が。
西田 スパナもヘアピンも大量生産されたもの。ゴミがいろんなところに出てくるが、ゴミとは大量生産されたものの行き着く先。そういう取るに足らない物質が時折重要な物象になる。最後は三人が墓石という物質になる。
杉森 三島の作品には肉体賛美のアミニズム的なものを感じる。この作品も、ただのものに必要以上の意味を見出してしまうというフェティシズムと自意識の過剰が至るところに見いだせる。
杉森 喜美のパートはオイディプス的。喜美が父親と近親相姦するということを知る前に喜美と寝ているからまさにオイディプス。
近藤 三人という構図も神話的。

★失語症と空虚
杉森 殴った後に失語症を発症しているところは精神分析的。彼の内面への到達できなさは、他者との限界を表している。
西中 むしろ三島の作品の登場人物はみな他者を感じさせず、三島の中で自己完結している印象。失語症になった逸平も、三島が感じていた戦後25年の空虚と重なる。
西田 『憂国』とその数カ月後に書かれた『獣の戯れ』は繋がっている。憂国の夫婦は心中して果てるが、天皇の問題は続く。憂国のその後をどう生きるかというのが獣の戯れ。ちなみに優子は唇が薄いが憂国の主人公は唇が厚い。
西田 草角家の空虚な穴は戦後の皇居。逸平は天皇である。喜美を取り合うひとりの自衛隊員は何もせず、ウクレレという記号だけもらって大事に抱えて満足しているのは自衛隊だから。
近藤 あそこで喜美と幸二を置き去りにするのも意味がわからないが。
西田 憂国はキレイに死ねるがこの作品はゾンビ映画。

★視点
西中 最後だけではなく冒頭も民俗学者の視点と考えれば、全体が民俗学者の聞いた話の報告になっている。『金閣寺』『午後の曳航』など他の犯罪もののように、ルポルタージュ小説のようなリアリティを付与したかったのでは。
近藤 『豊饒の海』も本田の視点。
西田 『春の雪』も最初は写真で始まる。
西中 戦後の太宰の『人間失格』も写真で始まる。映像の時代になり、写真の真実性というものを作家たちが盛んに利用したのでは。

★三島のうまさ
西田 『金閣寺』なんかよりよっぽど完成度高い。一番重要な作品だと思う。
西中 三人の登場人物の数学的な関係も三島っぽい。
諸根 よく書けすぎだよってくらいに、文章も奇麗で比喩表現も巧みで構成もしっかりしていて、その分破綻がない感じはするけどここまで上手いとよろこんで掌で転がされてしまう感じ。三島とか川端とか、こういう時代のこういう作家はもう日本からは出てこないんじゃないかと思いながら読んだ。
西中 『風の歌を聴け』を読みなおして昔の村上春樹は比喩が本当にうまいなーと思っていたが、『獣の戯れ』を読むと春樹100人分だった。
西中 ただし日の光の描写が多いのが失敗かなと思う。三島は終戦の日に見た日の光のことを何度も語っているが、その信仰というか趣味が出すぎている。日の光もパラソルも物語に関わってくるのかと思って読んでいたが結局なんでもなかった。
諸根 三島はうますぎるがゆえに、読者も書かれていることにすべて意味があるんじゃないかと思って読んでしまうのでは。
西田 三島と大江健三郎がいた時代はすごい。
西中 そこに川端も若き石原もいた。
西田 「あなたって黒んぼみたいな匂いがするのね」という部分は大江健三郎『飼育』への同時代的言及では。
近藤 現代を三島に書いてほしい。
西中 出たがりだからYouTuberになってたはず。

★その他
諸根 昔何かで三島由紀夫と安部公房の対談を読んだのだけど、そこで三島が「20世紀の文学はすべからく性の問題だ」みたいなことを言ってて、それに対して安部公房が「あとは言葉の問題。言葉とイメージの問題」みたいに返していて、どちらもそれらしいなと思ったけど、この小説の登場人物もいかにも三島の小説らしく性に縛られているなと思った。
杉森 その発言に則ると、今の日本文学は三島側の流れが廃れて、安部公房側の流れだけが残っているような感じがする。


(採録/西中)

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