読書メモ(11)読書感想文の感想文『凍りのくじら』の感想文
こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。
昨日、友人がオススメしてくれた辻村深月『凍りのくじら』の読書感想文をnoteに投稿しました。
その友人が感想文の感想文を書いてくれたので、今回は感想文の感想文の感想文を書いてみます。
その友人の書いてくれた感想文の感想文がこちら。
これを読んでまず驚いたのが、私の印象を「少し・ふわふわ」としていたことです。
これは『凍りのくじら』の主人公が他人の特徴を「SF(スコシ・ナントカ)」で表すことに合わせています。
なぜ驚いたかというと、私自身、これを読んでいる時に自分につけたのも「少し・ふわふわ」だったからです。
自分の自分評と他人の自分評がズレることがあることはよく懸念しておくべきだという話をよく見かけるが、意外と合っていることもあるものだなぁと思いました。
自分のことが客観的に見えているというよりは、裏表があまり無いということなのかなぁと思いました。これは自画自賛でしょうか?笑
ただ、付け加えるとすれば、「ふわふわ」には色んな所に飛んでいきたいという思いもあります。
自分の力で羽ばたいて飛んでいきたい気持ちもあるし、気ままな風に乗って予想外のところに飛んでいきたい気持ちもあります。
でも、流されるだけだったり、流されなければならないのは気に食わない。
だから、「少し・ふわふわ」です。
先輩自体ふわふわした人だなぁと思うが、ふわふわを捕まえるのも上手いと思う。ふわふわの言語化ができる人だ。
ふむふむ、苦しうない。
褒められるのは悪い気分ではありません。
でもここは正直に書いておきましょう。
私はこの作品に関しては、まだふわふわを捉えきれていないと感じています。
その証拠に、感想文はそれぞれの引用した文章に対する感想に留まっており、作品全体の感想はほんの一部に過ぎません。
全体の感想として、主人公が居場所を見つけて前に進む、と書いたものの、何をどう乗り越えたのか、まだ言語化できていません。
このふわふわを言語化するには、何度も繰り返し読むことが必要だと思います。
私が先輩の感想文でいつも印象に残るのは、先輩がこれは同じ部分だ・似た気持ちになったことがある・わかるという部分を書き残していることだった。だからこの部分でとても納得した。先輩の読み方が少しわかったような気がした。
言われてみると確かにそうかもしれません。
私は本を読む時、何か引っかかったところがあると、それが何ページかだけメモをします。そして読み終えて感想文を書く時は、そのページを読み返して「そういえばここでこんなこと考えたな」「このページのどこが引っかかったんだろう」などと考えながら書きます。
これは、引っかかったものをきちんと記録したいという気持ちと、メモに時間を取られて物語から離れたくないという気持ちの折衷案です。
しかし物語に没入している時はその余裕すらありません。例えば『凍りのくじら』でいえば、第7章から第9章辺り。そのため、感想文にはここの引用が多分ありません。一番夢中になって読んだところなのに感想を残していないのはおかしな気もしますが、そんな余裕もなかったのだから仕方がありません笑。
とはいえ、そういうところをきちんと言語化したいものだなぁと勝手に反省しました。
「先輩がこれは同じ部分だ・似た気持ちになったことがある・わかるなどという部分を書き残していること」については、実は真逆の例があります。
奇しくも、この友人がオススメしてくれた又吉直樹『劇場』です。
この作品では主人公に共感できなさすぎてしんどかったです笑。
私は幼い頃から多様な視点で物事を観ることを大切だと思って生きてきたので、そこまで受け入れられないということは滅多にありません。
それもまた、貴重な経験であり、自分の糧となっていく気がします。
私はこの本の主人公と反対の性格をしていると思う。他人に深入りして感情移入してしまうし、仲のいい人なら胃まで痛くなるほど自分事にしてしまうタイプだし、気に食わないルールがあったら戦う側にいる。
感想文に書いた通り、どちらかといえば私は主人公に共感する側の人間でした。
その立場から言えば、「気に食わない」の基準が違うのではないかと思いました。
作品内では例えば制服の廃止が挙げられますが、主人公は気に食わないけど戦わないのではなく、そもそもどうでもいいと思ってしまうのです。強い言い方をすれば、何故そんなことにこだわるのかわからない、という感じです。
自由か不自由かでいえば自由な方がいいじゃん、という気持ちもわかります。逆に言えば、できる限り自由を求める気持ちが欠けているのかもしれません。
まあ自由による不便というのもあると思うのでどうなのかわかりませんが、「どちらかと言えばしたいことをしたいと言えない」という主人公の内面を表しているのかもしれません。
また、無力感もあると思います。
言って変わるなら言うけど、その前に諦めてしまうし、その労力を使う気になれない、という感じです。
では、私はこの本のなにが良いと思ったのだろう。
(中略)
うーん。
やっぱり読書の感想って難しい。
大きななにかふわふわしたものを言語化できない。
これに対して、横から勝手に言わせてもらうと、良かったのは多分、色々だと思います笑。
人生って複雑だし、小説だって複雑です。その中の色々が引っかかったのだと思います。
それを一つ一つ抜き出して整理するのも面白いと思うし、そのためには繰り返し読むと良いと思います。
でも、ふわふわのままでもいいんじゃない?とも思います。
今はふわふわでも、そのうちいつか過去や未来の何かと繋がって、待ってましたと言わんばかりに本の一節が輝く時がやってくる、かもしれないし、こないかもしれません笑。
本の影響って、そんなすぐにわかりやすく表れることは滅多にないでしょう。
それでも読書を積み重ねていくうちに、確実に影響があります。
以前、さくらももこさんのエッセイを読んだ時、なんとなくこの友人に似ているような気がしてオススメしてみました。するとびっくり、なんと既に全部読んでいました。
それくらい、本は人に影響を与えるものです(そう思うと、子育てと読書について考えてしまうのですが……)。
でも多分、昔読んだ頃はそんなことを考えずに読んでいたのではないでしょうか。
もし、「自分はこの作品のこのような点に惹かれた」なんて言う小学生がいたら結構すごいと思います。
別に今すぐに感想が言語化できなくてもいいのです。
そんなこと、この友人は言うまでもなくわかっていると思います。
でも最近の世の中は、すぐに結果を求める風潮があるように感じます。
わかりやすく言えば、ミヒャエル・エンデ『モモ』のような世界です。
面白かったとか、なんとなく印象に残ったとか、ひとまずはそれでオッケーではないかと。
そこに効率を求めるのも良いとは思うれど、私はあまり好きではありません。
理論武装するとすれば、ダニエル・ピンク『モチベーション3.0』にあるように、モチベーションや考えるための余暇を考慮すると、むしろ目的を持つことがマイナスにもなり得るのです。
ただ、こうやって同じ本を読んで、あれこれと議論をするのは楽しいなーと私は思います。楽しい、だからそれで良いのです。
そんなこんなで結構長くなってしまいましたが、そろそろ終わろうと思います。素晴らしい作品をオススメしてくれた友人に感謝を込めて。
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