英語を英語で理解することと受験勉強
こんにちは。札幌は大通り駅から徒歩1分の教室で英語講師をしているアラと言います。
今日は英語の授業をしているとうっかり言っちゃいがちなセリフ、「英語を英語で理解しよう」について考えてみます。
「英語を英語で理解する」とは?
このセリフ、授業の現場ではよく聞きますね。僕自身も思わず言ってしまうことがあります。でも、改めて考えてみると、ちょっと何言ってるかわからない言葉です。日本語が母語の僕らは日本語で考えているはずですが、そう意識することはまずありません。そもそも話したり書いたりするときの日本語と、思考するとき、感じるときの日本語が同じなのかもよくわかりません。
となると、英語を英語で理解するなんて、なおさら確かめようのないことです。この文を書いている時、僕はフィンランド語で考えてたんだよねーとか言っても、「何言ってんの?」って思うだけですよね。本人がそう言っているんだからそうなんだろう、という程度の話なわけです、「英語を英語で理解する」というのは。
なんでそんなこと言うの?
では、「英語を英語で理解しよう」のような言葉は、何を目的に発されているのでしょう。僕が授業中このセリフを言いたくなるのは、直訳では意味が分かりにくい文に出会った時です。名詞構文(He is an early bird.)とか使役構文(I had my hair cut.)などですね。これらの文は直訳すると、「彼は早い鳥だ。」「私は私の髪を切らせた。」となり、前者は全くの意味不明、後者は最低限の情報しか得られません。この2文を「彼は早起きだ。」「私は髪を切ってもらった。」と理解するためには、文法と単語の知識に加えて、語用論的な知識が必要になります。(語用論とは、言葉の使われ方を研究する言語学の一分野です。語用論的な知識のことを、学校のテキストや受験参考書では「語法」とよんでいます。)
要するに、語用論的な説明が面倒くさい時に「英語は英語で」と言いたくなっているようです。「英語ではこういう時こう言うんだ。だから覚えて。」というわけです。実際、外国語を学ぶというのは「覚える」ことでもあるので、「覚えて」という指導は間違っていないと思いますが、なんと言っても暗記ほど高校生に嫌われているものもないので、つい、「英語を英語で理解しよう。」みたいな言葉遊びで誤魔化してしまっているのも否めません。
嫌われるのも仕事のうちです
実際、英語講師のお仕事をしていて、単語の訳の暗記をしつこく要求して生徒さんに嫌われることなんてザラです。受験生に単語の暗記を求めることは、ラーメン屋でラーメンを注文することと同じくらい正当なことだと思いますが、当の受験生たちにとって、暗記というのは本当に気の滅入る作業であり、どう考えてもやりたくないことなのです。
北大志望あるある
僕が教えているのは札幌の教室ですから北大志望の子が多く入ってきますが、その中には一定数、英単語の暗記を拒み続ける子がいます。いくら北大が入りやすくなったとはいえ、旧帝大の一画です。英単語を知らないのに受かったりしません。旧帝大の中ではもっとも簡単な大学だと言われますし、英語の試験も標準的な難易度ですが、それでもほとんどの高校生にとっては激ムズです。まして人気の学部は競争が激しいので、高得点をとる必要があります。そういう学部では本文中に意味のわからない英単語が10語もあればもうその競争からは脱落していると思った方がよいくらいです。10というのはちょっと厳し目な数字ではありますけど、そう思って準備しないといけない大学なんです。北大が簡単だ、というのは、関東や近畿の国立大学や医学部を目指して中学生のころから勉強してきた人たちの話です。
暗記が嫌な理由
暗記を拒む子たちは、自分は暗記に向いていない、と思っています。しかし、今まで色々な子を教えてきて、全く覚えられない子は1人もいませんでした。たしかに覚えるスピードに個人差はあり、その差は小さくはないのですが、全くできない子はいません。なので教える側もあまり簡単に暗記させることを諦めないほうがいいと思っています。どの道、自分にとって必要なことを覚える作業は一生ついてまわるので、それに慣れるに越したことはないでしょうし、実は勉強で苦戦している子にとって、丸暗記は手応えを感じやすい作業でもあるのです。勉強の入り口となりえる作業でもあると思います。
覚えなくても何とかなる?
もう一つ暗記を拒む子たちによくみられるのが、「覚えなくてもなんとかなる」という思い込みです。この思い込みはさらに二つに分かれているように思います。「覚えなくても、自分の読解力なら正解の選択肢は選べる。」という思い込みと、「覚えなくても言いたいことが伝わればいい。」という思い込みです。前者に対しては、「大学舐めんな。」の一言です。大学はこの少子化時代、コツコツ努力を続ける本当に優秀な子を取りたくて仕方がないのです。私立大学なら、まず大学の経営を安定させる学生数を推薦で確保し、入試ではとびきり優秀な子を選び抜いて大学のブランド力を高めようと必死です。だから高い読解力と膨大な知識量のどちらも要求してきます。国公立大学は人気があるので競争が激しいですから、何となく選択肢を選んでいるような子は放っておいても振り落とされてしまいます。後者の「伝わればいい」派は、受験英語というゲームを何か勘違いしているようです。受験の英語は文化交流の上手さを競うゲームではありません。受験の英語は建前的にも、そしておおむね実態的にも、インプットの能力を競うゲームです。英語で授業を受けられるのか、つまり英語で書かれた学部レベルのテキストを読めるのか、そしてそのテキストを使って英語で話す先生の授業をちゃんと受けられるのか、そこを見ています。プレゼン能力やネイティブっぽい発音を競うゲームではないのです。
北大受験は死屍累々
北大を志望して受かる人はほんの一握りです。学部や年度によってバラバラですが、おおむね3人から4人に1人というところですね。しかしこれは実際に北大を受験した人が分母になっている数です。現実にはセンター試験や共通テストの結果を受けて志望を変える人がすごく多いので、現場の感覚的には北大合格者は志望者10人に1人くらいでしょうか。もっと少ない気もします。
残りの9人に向かって
僕は、この残りの9人に対して「英語は英語で理解しよう」と言いたくなることがあります。この子たちには、顔を合わせるたびに「暗記しろ」と言うことになるので、たまには別のことを言ってあげたいな、と思うのです。しかし、大学受験はどうしたって暗記が大きな部分を占めているので、「覚えなくてもなんとかなる」ということを安易に匂わせることも憚られます。そんな時に「英語は英語で理解しよう」というセリフは妙に便利なんだろうと思います。何か言っているようで言っていないので当たり障りがないし、それでいて嘘っぽくもない。でも、やっぱり言葉遊びでしかないですね。
暗記しようぜ
結局、覚えるしかないものは覚えるしかないのです。きっと人間の意識は、全ての現象を理屈で理解できるほど高い処理能力を備えていないのでしょう。何でも理解できるほどの高度な能力は、生き物としてはオーバースペックすぎて割に合わないんじゃないでしょうか。重要な用語を覚えることで複雑な現実を少しだけ単純化し、そこからようやく理屈が扱えるようになってくるのだと思います。
漢字とか英単語を語源から考えると、丸暗記と違って納得して覚えられる、とよく言われますが、現場の感覚とは全く違います。そのような理屈で覚えていくのはあまりにペースが遅く、ほぼどんな目標にも間に合いません。もちろん覚えにくいものを語源に遡ったり分解したりして覚えていくことはとても良いアプローチだとおもいますが、それだけではいつまでたっても前進しません。暗記にはスピードも重要で、理屈で補強してもゆっくりやっているならば、なかなか次の段階には進めないのです。結局、どんな勉強にもちゃんと理屈で考えなきゃいけない局面がいずれ訪れますから、覚えるものはさっさと覚えて、そのステージに進んだ方が手応えも得やすいと思います。
英語は英語で、の前に
「英語を英語で理解する」ことが可能なのかどうか、それはよくわかりません。僕自身、英語の本を読んでいるときは、英語で考えているような気もしますが、そうでないような気もします。YouTubeで『ジョジョの奇妙な冒険』の第四部の悪役、吉良吉影が如何に優れたキャラクターであるかを熱弁する動画を見ている時も、英語で考えているような気がしますけど、そうでない部分もあるような感覚もあります。
なので、英語で英語を考えようとする前に、まずは日本語で英語を考えていきましょうよ、というのが結論です。そのためには英単語の日本語訳をしっかり覚えましょう。
高校生の生活には、まず勉強しない誘惑が無数にあり、それを乗り越えても暗記はしない誘惑があります。そういう誘惑に負けないためには、「楽な道を選ばない」という決意が必要です。ドラえもんがそう言ってたので本当だと思います。
きみはかんちがいいしてるんだ。道をえらぶということは、かならずしも歩きやすい安全な道をえらぶってことじゃないんだぞ。
藤子・F・不二雄, 1991, 『ドラえもん』42巻, 小学館
では、また。