大学生の本文は勉強だというのは少しズレているような気がするという話
大学生の学力低下とかそんなニュースが流れる度に聞こえてくる、大学は学問をするところだという主張。こすりに擦られたこの主張を聞くと、私は毎度違和感ををおぼてしまう。どこかズレているような印象を受ける。なぜなのだろう。
確かに元を辿れば大学とは学問をする場である。俗に高等教育と呼ばれる1段上の学問を志す人々の集う場所だった。それ故に敷居は高く、上位層の人間にのみ許された場所だった。その狭き門の先には才人ばかりの環境があり、みな切磋琢磨し合う環境と学問を極める場所を備えたのが大学だった。と私は考えている。
しかし、いつしか大学は誰しもが当たり前に通う場所となった。いずれ一員となる社会で生きるために必要な肩書きに大卒が必須となった。そうなった時から大学というものは産業と化したのではないだろうか。始めこそ初心を忘れず学問を志すことを胸に抱いた人も少なくはなかっただろう。だが、肩書きになりさがった大卒というブランドのためにだけ大学に進学するものが大半となってしまった。同時に産業化の弊害で、大学側も学問のみを売りにするわけにいかず大学生活を売りにし始めた。そうなるとかつて学問を志す人のための場所だった大学は、大学生活を夢見る人のための場所へとすり替わってゆく。それが今の現状ではないだろうか。現状大学に求められているものは、学問ではない。大学生活だろう。本来のあり方を求めるのはいいが、大学生活を求める人々が大半である以上現状の大学の持つ意味は大学生活の提供だと考えるのが筋だろう。
果たしてこれでも本来のあり方は学問であることに固執すべきなのだろうか。