【新宿区】穴八幡周辺
江戸時代、神社は寺の管理下にあった。
東京都内の神社の歴史は明治以降、国を神道によって国民を動かす方針を決めた時から本格的に始まった(と思っている)ので150年くらいだろう。創建以来1000年経っていると書かれている神社もあるが祠のみで細々と続いていた時もあるはずだ。
都内神社仏閣巡りをしているつもりは無かったのだが、東京時層地図を使って街巡りしていて、わりと訪れたので神社仏閣マニアとはいかないが、神社に興味がない人に毛が生えたくらいにはなっている。
今回は新宿区西早稲田二丁目にある穴八幡に一人で訪れた。
なぜ訪れたかというと、私の奥さんが毎年、穴八幡からある時刻に部屋に張り付ける「一陽来復」のお守りがあり、それを壁に張り付けていたのだが、ものの1カ月もしないうちに落ちてしまい、それを返却しにきたのだった。(私はいままで行った事がなかった)
神社の階段を上がると境内にはほとんど人がいなかったが、本殿前はピーンとした空気が張り詰めており、言葉は適切ではないが、これは神域だとビンビン、バキバキに感じる場所だった。即脱帽。
お守りを返却し、御朱印帳は忘れてしまったが置き書きの御朱印をいただこうと思ったところ、御朱印帳に直書きしかやっていないということ。珍しい。このご時世、たいていの神社は置き書きがある。置き書きしかやっていない神社もあった。
いままで来た事がなかったけれどスゴイ所もあるものだなと境内を散策して帰宅の途についた。
東京時層地図に行く前に大江戸今昔巡りで幕末の地図を1855年頃
西は尾張徳川邸の庭。
穴八幡宮別当放生寺 iPhoneの画像も放生寺となっていました
東側には高田稲荷水稲荷社地 別当宝泉寺 高田富士という富士塚もあったようです。(のちの早稲田大学拡張で水稲荷とともに移転)現在宝泉寺はほんのちょっとしか残っていない。
おどろくべき発見は地図の北側。現在の甘泉公園の南側。
こちらにはコースのようなものがみえる。これが高田馬場
なんと高田馬場はここだったのだ。
場所的には高田馬場駅より早稲田駅のほうが近い。早稲田大学が出来ていなければ、早稲田駅は高田馬場駅となっていたでしょう。
あと、和田の地名
そういえば鎌倉時代の侍所別当 和田義盛の一族がこの辺りを治めていたらしいからその名残の地名なのか。
現代の地図
東西南北に早稲田大学。穴八幡を中心として早稲田大学が広がっているようにも見えます。
明治9~19年
東から宝生寺、水稲荷、法輪寺、龍泉院、穴八幡社、放生寺というライン
南も街道沿いにお寺がたくさん。かなりのどかな感じ。
はるか北の現在の甘泉公園の場所には立派なお屋敷らしきものが建っていますが、江戸時代の地図から推測すると、清水御屋形 10万石 となっていたので御三卿の清水徳川家でしょう。
明治後期
のどかだった穴八幡界隈に激震が訪れます。
尾張徳川屋敷は陸軍用地、下戸塚村には早稲田大学。
早稲田大学は東京専門学校が1905年明治35年に早稲田大学と改称。
この地図は明治39~42年なので改称して数年。
明治初期の地図とくらべても街道沿いの住宅は増えた感じがしますね。大学の影響かな。
大正期
北側の相馬邸、明治後期から相馬邸になっています。
たしか現在の相馬家当主はユニークな方で原発事故以降は広島に牧場を作ったりいろいろと活動していたはず。相馬野馬追が有名です。明治維新以降はこちらが邸宅。
堀部安兵衛遺跡というのがあります。
赤穂浪士の中心人物の堀部安兵衛がこの場所、高田馬場で決闘して3人を切り倒したというもの。この決闘事件というのは1694年で年代的にめちゃくちゃ離れている。赤穂浪士はこの時期に人気が沸騰した可能性がありますね。碑は大正2年に設立。
この高田馬場の決闘事件のことの発端は他人の口喧嘩から決闘に発展して、堀部安兵衛はあとを頼まれたが、あとから仇討ちとかしたくない今から助太刀するという話だから、巻き込まれ感がスゴイある。
昭和初期戦前
早稲田大学はさらにその範囲を広げた感じ。関東大震災後の都市計画か馬場下町から北上する道路が広くなったように見えますね。やはり防災上、道路の幅というのは火の回りを止めるためにも重要と言えるとおもいます。
これから後の空襲で穴八幡も焼けてしまいますが、北側はどうやら戦災焼失地域にはなっていないようです。道路の幅が火の回りを食い止めたのかもしれませんね。
戦後高度成長期前夜1955年頃
相馬邸が早稲田大学庭園にもうこの近辺は早稲田大学が統べているといっても過言ではなくなっていました。
私は知識量不足から早稲田大学といえばいわゆる戸山キャンパスが早稲田大学だとばかりおもっていましたが場所が違いました。
バブル期1990年頃
穴八幡の南の道路って広くなったのは比較的最近だったんだとわかりました。このあたりの土地って高低差があって入り組んでいるなと思って地形図みたら、内陸まで浸食した入江の終着点にあたるような場所で、
アースダイバー中沢新一さん説のいうところの、岬の突端の縄文人の墓や貝塚があった聖域。聖域は住む人が入れ替わっても引き継がれていく
なるほどなぁ そういう場所かぁと思いました。
次は境内の写真などを・・・
今でいう保護観察官の方の50年前の碑なんですね。大変な仕事です。
櫻もわずかにのこっている様子。写真のデータを見た所、この日は4月4日でした。
穴八幡の名称になっているご神像の見つかった穴がある神殿は写真に撮り忘れていました。御朱印をいただきにまた行きたいと思います。
ここでも徳川家光が鷹狩りの際に訪れたとか。
徳川家光来訪伝説多すぎ説がやはり僕の中であります。
とにかく訪れた中でかなりの聖域感がありました。来年はお守りを落とさないようにしっかりと壁に接着したいとおもいます。