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【新宿区】四谷門跡(四ツ谷駅)

新宿区の四ツ谷駅にある、四谷見附跡にいってきました。

車のガンガン通る新宿通りから一本北に入った道に四谷見附跡はあります。

下には電車が通っていて、石垣と桜があるだけですが

(反対側にはとんかつ たけだ という有名なとんかつやさんがあります。土曜の昼前だったのですが、iPhone発売日ぐらい人が並んでいました。食べてみたいですね)

四谷見附跡から地図を見てみます。石垣は四谷見附跡です。

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現在の地図 窪んだ場所には電車が走っていますね。

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江戸時代末期の地図。(大江戸今昔めぐり)1860年代

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当然というか、外堀なので堀があります。電車の通っている現在の風景からは堀だということってあまり想像ができないです。

現在いるところは四ツ谷御門のど真ん中ですね。当時はここを通らなきゃいけないので大変ですね。

四谷見附はコの字型につくられており、新宿側からの敵の侵入を防ぐ役割がありました。

明治時代初期(1876~86年)

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明治時代初期ですが江戸時代そのものの形が残っています。今の四谷は車がびゅんびゅん通っていますが、この時期は繋がっている道もないです。


大正2年 四谷見附橋開橋紀念 幕府時代の四谷御門

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いまでいう四谷見附の交差点あたりから四谷御門をみた図。

Wikipediaより 四谷門

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四谷見附北からみた写真

雰囲気的には今の半蔵門あたりの雰囲気に似ているかなと思います。

この石垣に、この櫓。非常にいいですね。めちゃくちゃ良い。

今になってかんがえればこの四谷見附は残して横に道路を通したりしたほうが観光資源になりましたね。

関東大震災、空襲にたえられたかどうかは別として。


明治後期(1906~09年)

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1894年 明治27年 甲武鉄道(現在のJR中央本線)四谷御門は撤去され、四ツ谷駅ができました。

その時にあった石垣の一部は烏帽子石として日比谷公園の一角に置いてあります。烏帽子石の写真。子供も小さいです。

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追記 最近撮りました。


大正時代(1916~21年)

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四谷見附橋は1911年 明治44年 に着工 1913年 大正2年 に完成。

大正2年 四谷見附橋開橋紀念 四谷見附橋開橋式麹町祝賀会 編

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渡り初め 矢島家3夫妻という3組の家族が渡り初めをしている写真。

大正時代ですが武士の正装であるかみしもを着用して橋を渡っています。

矢島家三夫妻はこの儀式の重要人物のようです。

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矢島繁蔵氏、矢島亀吉氏、矢島繁太郎氏、麴町区長(のちのち調べたところ麹町区長に矢島氏はいませんでした)で祝賀会副委員長だったようです。

東京市長の阪谷芳郎氏につづいて矢島家の面々が渡り初めをしたとの記録がありました。

矢島亀吉氏の名前を冠した会社や、矢島亀吉氏が明治初年に時計類の販売を開始した会社が現在もあるようです。


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開通の賑わい

大変盛り上がっています。この時代ってなにかあると大勢集まるんですよね。1000人ちかく招かれているようです。

この当時の写真をみても活気を感じますね。大正元年の東京都の人口は300万人いかないので今の東京の5分の1の人数でこの活気。

同時期に淀橋のお祓いをしたときも500人以上、浜離宮庭園での横綱梅ケ谷奉納土俵入りを沢山の人が集まったということも調べたことがありました。


昭和10年頃(1928~36年)

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外堀は完全に埋め立てられたようです。

双葉女学校は明治後期に四谷に移転した都内女子御三家の一つといわれています。戦時中の空襲で校舎は全焼してしまっているので、もし四谷門が残されていたとしても消失は免れなかったかもしれません。

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橋の真ん中には案内板があります。

国史跡江戸城外堀跡 外堀跡だけなのに国の史跡です。

四谷御門残しておいてよ・・・とは思いますが、当時は「徳川の乱れた世の中を改める」というのが明治維新の骨子であり、それは明治神宮外苑の案内板にも明記されているので、前政権の遺産は重要しないというのが方針だったのでしょう。

改めて四谷御門の写真をみるとなんとももったいないという思いが・・・とはいえ生活を重視すると古いものにはこだわっていられないですもんね。

自分の生活を振り返ってみると昔から持っているものなんてなにもないもんなぁ。





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