【江東区】東陽町6丁目交差点付近
季節はもう5月にさしかかろうとしていますが
当時は1月3日 仕事終わりに釣りに行こうと思い立ちました。
しかし餌のイソメがない。お正月に売っているのはここしかないとはるばると東陽町の上州屋にむかったのでした。
東陽町駅を降りて北に10分ほどあるいた場所にあります。
このあたりは個人的ナイススポットで、サイゼリヤもあるし巨大なスーパーのサミットもあるし、東陽町駅前にはダイソーもあるし、1人様用飲食店はたくさんある、生活するにはいい場所ですよね。
この交差点はGoogleマップでみると「六万坪跡」と書かれています。旧地名のようです。
江戸市中の塵芥により埋め立てというのはちょっとロマンがありますね。
ボーリング調査をしたら300年前のいろいろなものが詰まってでてくるんでしょうね。
今回はここから東京時層地図をみてみたいとおもいます。
現在の地図
歩いていると広いのであまりわからないのですが、水路が多いです。
明治9~19年 1876~1886年
ほとんど全域が田んぼですね。
永代新田、千田新田、石小田新田、平井新田とあります。
東の方には海軍造船所資材置き場があります。
なぜ海を埋め立てて田んぼになるのかと考えると、北に墨田川と中川があるんですよね。そこから水を取って運河を形成している。
だから時間をかければ塩っけがない田んぼが出来上がるというわけなのでしょう。
よく考えられたものだとおもいます。
明治39~42年 1906年~1909年
斧っぽいマークは材木貯蓄場のマーク。
明治期の後期にかけて田んぼが材木貯蓄場になったようすが見てとれます。
南の東陽町あたりは洲崎養魚場、飯田養魚場。おもに川魚の養殖だったようです。金魚、すっぽん、うなぎなど。
服部養魚場の服部倉次郎さんという方は浜名湖でうなぎの養殖を始め、これが今に伝わる浜名湖のうなぎとなっているんだとか。
300年前の江戸時代に浜を埋め立てて田んぼにして、それを130年前の明治になって水で満たして材木置き場や養魚場というのはなかなかの変貌です。
国策の富国強兵を担ううえで木材は重要な資材だったのでしょう。
まさに、水路の街が形成されます。日本のヴェネチアか。
北は東洋木材防腐株式会社とあります。こちらは1997年にケミプロ化成株式会社に吸収合併。
北西の石嶋町には屠畜場。
大正時代にはなくなっていますので、明治期に出来てすぐに消えたということになります。今の深川第四中学校の近辺です。道路でつながっている場所がないので、この時代は船が物流の主流だったことがわかります。
大正5~10年 1916年~1921年 関東大震災直前
○ 養魚場もなくなり材木置き場になりました。
この広々とした材木置き場をみると、思い出すことがあります。
NHKの朝ドラで放送されていた高畑充希さん主演の
「とと姉ちゃん」2016年前期
このドラマの戦前の舞台となっていたのが深川区の材木商でした。
いまとは全く違う風景が広がっていたのですね。
○ 北には日東製氷会社 こちらはニチレイの前身となる会社。
○ 化学工業学校は都立の工業学校です。
昭和3~10年 1928年~1935年 昭和初期戦前
○ この時代も材木貯蔵場があります。現在の地図とくらべてみるとこの時代に貯蔵場だった場所は区役所だったり、公園だったり、団地だったりと公的な施設になっている印象です。
○ 関東大震災後に復興景気目当てに全国から材木業者が集中し、輸入材木などの影響もあって、材木相場は暴落し、多くの材木業者が倒産したということです。
○ 戦争ではこのあたり一帯はすべて焼失地域になっています。もっとも被害の大きかった場所の一部ということもいえるでしょう。
高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年
○ この時代も木材貯蔵場が残っています。
木を水に浮かべているので、その高低差を稼ぐために、各貯蔵場には水門があって水位を調節していたが、干潮時でも木を運びやすい様に水門を設定しているので、満潮時に水門番が寝過ごしたりすると水があふれてしまったそうです。
https://www.mokuzai-tonya.jp/blog/processing/2921.html
昭和33年 1958年 新木場への集団移転事業を計画。
計画から約20年後の1981年に新木場に全635企業が移転完了。
なんと!!これも驚き。1981年ってわりと最近じゃないですか。しかもこんなドラマチックな話があったなんて。
バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年
○ 材木置き場もすべて埋め立てられました。
なるほど、だからスーパーのサミットも郊外のスーパーみたいに大きいなとおもったら、土地に余裕があるからだったんだ。
○ 仙台堀川という名称は戦後高度成長期以降の名称のようですね。昭和40年につけられたとか。
名称の理由はこの運河を西に墨田川方面にいくと、仙台藩の屋敷があり、仙台藩からの米はこの堀を利用して、隅田川沿いの御米蔵に届けられたと。
そして今更ながら、東北からのお米も船で運んでいたんだなと認識しました。昔は水運の国だったのだと改めて。
いまじゃなんでもトラックだから想像もできませんけれど。
○ まとめ
江戸時代は海浜で、その後埋め立てて水田。さらには水田をやめて材木貯蔵場、戦後は新木場への移転を経て現在の形と、かなりの変貌を遂げている東陽町6丁目交差点付近でした。
お正月そうそう夜釣りにいくのもアレですが、冬休み妻子の居ない間に出来ることといったら釣りか柔術。夜なら釣りです。
この日は隅田川まででて南下し、月島から帰りました。ハゼが2匹とダボハゼが数匹。お正月くらいはまだ魚釣れるんですよね。