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【渋谷区】青山学院大学

プロバスケットボールの試合観戦の案内が来たので行ってみました。小学生向けです。

高校生のときにマイケル・ジョーダン(一回目の引退したあたり)、スコッティ・ピッペン、デニス・ロッドマン、チャールズ・バークレー、シャキール・オニールなどが有名でした。
ただ雑誌でみるだけで試合を通してみることはなかったですね。
せいぜい断片的にテレビで流れるダンクシーンをみるとか。

渋谷区ではプロバスケットチームがあってその名も
サンロッカーズ渋谷
日本代表ジョシュ・ホーキンソン選手を要するチームです。

バスケットボール初観戦の感想は、観客全員に応援を求める感じと、試合展開の早さに前半で疲れ切りました。

観る方もとてつもない体力勝負のスポーツです。
テレビで見るようなダンクシュートなんてほとんどない。
考えてみたらそりゃそうですよね。
ディフェンスだって飛んで届くような場所にそうやすやすと行かせるわけない。

娘は日本代表の富樫勇樹選手が好きみたいで、バスケットボールの体験に行きたいようです。やりたい事がいろいろあるのは良いですね。

青山学院記念館
大学の体育館が試合会場なんて珍しいなとおもったら、過去にはテニスの会場や大相撲の夏巡業でも使用されているようです。
現在の地図 表参道駅の南側です。

この辺りは地図で何度も取り上げている場所です。

南は御料乳牛牧場
北は陸軍大将大山巌邸
北西には琵琶池を擁する旧大名の稲葉邸などがあったことがわかりました。

今回はかぶりのないようにやりたいとおもいます。



江戸時代1855年頃の地図

青山学院大学の場所は明治以前は伊予西条藩(愛媛)
松平左京太夫頼学
 紀伊徳川家の支流
紀伊徳川家の上屋敷は現在の赤坂御所ですので距離的にも近い関係です。
紀伊藩主徳川頼宜の子供から分家ですので、頼の字を名前にしているようです。
松平頼学の子、頼英は幕府の親藩でありながら、戊辰戦争ではいちはやく官軍に与しています。血縁よりも世の中の流れが大切ということでしょうか。

松平家の北側は百人組同心大縄地 鉄砲百人組の与力・同心の家があったところです。
同じ感じで今も名前が残っているのが新宿の百人町ですね。

今も表参道にあるお寺、善光寺は明治に入ってからお墓を作り初め、江戸時代は墓地はもっていなかったとのこと。

明治9~19年 1876~1886年

周辺は茶畑が多いですね。

明治になってからの旧士族の食い扶持作りとして造られたのが茶畑であると理解しています。

特に佐賀藩鍋島家は茶畑を推し進めたので、渋谷の鍋島松濤公園の近辺は茶畑が多かったことで知られています。

地図上では

開拓使1号用地
開拓使2号用地

というのがあります。園芸と穀物の試験場だったようです。

開拓使というのは明治初期にあった官庁で北海道開拓にあたりました。

当初のトップは鍋島直大。周辺に茶畑が多いのもその流れなのかな?

後に黒田清隆が開拓使のトップになり、御用外国人を雇います。
この中の一人が、今でも有名な「ボーイズビーアンビシャス」 クラーク博士。

マサチューセッツ農科大学の休暇期間に札幌農学校の教頭になり、授業を取り仕切り9カ月で帰国。その後はマサチューセッツ農科大学の校長になったりしますが事業で失敗し、不遇をかこいます。
本人いわく札幌農学校時代がクラーク博士の人生の中でもっとも輝いていた時だったそうです。


明治39~42年 1906年~1909年

○ 開拓二号用地は都電の停車場になったようです。池の周りをぐるりと巡る線路が印象的。2024年現在、この場所には周辺の小中学校を集めた仮校舎ができるようです。通称琵琶池というこの池も残る見通し。出来がったら近くまで見に行ってみようとおもいます。

○ 東京英学校が開拓一号用地を購入し、明治27年に青山学院に改称。
この時代の校長は本多庸一。新渡戸稲造や内村鑑三とならぶ明治期におけるキリスト教系教育の先駆者としてしられるようです。
青山学院はキリスト教系の学校なんですね。


関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年

○ 北側にある表参道は明治神宮の参道としてつくられたものです。

都電の駅名も明治神宮前。ここから明治神宮ってけっこう距離ありますよ。当時は現在と違う規模感でつくられていたのだと感じます。

○ 青山学院はこのころ、勝田銀次郎という海運業で成功した人物が、高等学校校舎と院長館の建設費を全額負担。設計は辰野金吾

勝田銀次郎は若かりし頃、海運業で成功する前に、青山学院校長だった本多庸一に影響を受けていたようです。

第一次世界大戦で物資が日本に求められたのもあって、日本に急激に成金がふえるのですがその一人です。

ただ彼はお金の使い方がほかの成金と違いました。

勝田が建てた青山学院高等学校校舎は1918年に竣工しますが、1923年の関東大震災で崩壊。
1920年にはロシア革命でウラジオストクに集まった800名の難民を、貨物船だった陽明丸を改造して、関係者合計1000人あまりを乗せて
3か月かけてフィンランドに運んだそうです。

そして第一次大戦終了後、勝田汽船も1929年に倒産。

そのまま凋落かとおもわれましたが

1933年には神戸市長として1941年までつとめ、戦後は神戸市最高顧問に就任し、1952年に死去。
傑物ですね。

「公の為にお金を使った事、めげない事。」

ということが、人生において大切なのではないかと勝田銀次郎の人生を簡単に追って感じました。

昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年

 

○ 関東大震災後に都内は道路の幅が広がったりガラリと様変わりするものですが、このあたりはあまり変わっている様子がないですね。
谷があるわりには地盤は良いのかもしれません。

○ 青山学院ではこの数年後、昭和15年1920年 皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会が行われます。 この時に日本基督教団という日本最大のプロテスタント教派ができたようです。

○ 大山邸の大山巌の息子、大山柏は貴族院議員でしたが、史前学を研究していたので煙たがられたのでしょう。54歳で北海道のソ連との前線に送られています。補給物質がたりなくて自腹を切って部隊に回していたとか。ここまでくると本当の話なのかなと思ってしまうエピソードです。

この時期、他の宗教や史前学は触れてはいけない領域だったようです。

高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年

○いわゆる国道246号が六本木にむけて建設中。青山学院の敷地を分断する形だったから、道路の反対側に初等部があるんですね。

○青山学院は1949年 昭和24年の学制改革で青山学院大学に。

○ 少し北に青山会館という建物がありますが、ここは大正14年に徳富蘇峰の寄付で皇室中心の思想にもとづく国民教育を目的として建てたようです。この当時はまだその建物が残っていて、1970年 昭和45年に青山第一マンションズへ。いまもビンテージマンションとして機能していて、業界人が住んでいるようです。100㎡で家賃50万円 高いんだか安いんだかわかりません・・・

バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年

○現在地である青山学院記念館は東京オリンピック開催に合わせて1964年に完成。

○ 青山学院といえば希代の天才サザンオールスターズの桑田佳祐が有名ですね。

以前、江の島にいったときに、子供と海岸で遊んでから駅までの帰り道、浜辺の公園で同年代くらいのオジサンたちが、ラジカセで「真夏の果実」を流していて、それが耳に入った時に思わず泣きそうになりました。

リリースが1990年だから、ちょうどこの地図の年あたり。
桑田佳祐は青山学院大学除籍なので、関係ないっちゃないですが・・・

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