【千代田区】一橋門周辺
「江戸36見附を追いかける」
という事を一時やろうとしていましたが、すっかり忘れていました。なにせ虎ノ門とか数寄屋橋門とか跡形もないのが多いです。
なんだかんだで見附はけっこう回っていますので、後々まとめたいとおもいます。
今回は一橋門跡へ。
ラーメン橋台というのはなんていうんですかね。どうしてもラーメン屋台に見えちゃいます。
構造はコンクリートブロックを横から見た図に似ています。
一ツ橋門はフィボナッチ級数の比1:1.618にも当てはまり、美観にも優れているそうです。
高速の高架橋が掛かって美観もなにもないですが、と当時は美観やら史蹟よりも、経済最優先でこれが上策。かかって日焼けしないし雨風が多少防がれるので保存っていう意味では良いのかな。
橋を渡っていくと、石垣が見えてきました。テンションが上がったのはいうまでもありません。
僕
「うぉースゴイよ石垣がみえてきたよ!あれが一橋門跡の石垣か」
娘
「全然面白くないよ」
石垣の高さ的にも一橋門の桝形門の入口になる高麗門が乗っかっていた場所なのかな~とおもいましたが、
関東大震災後の崩壊して仮橋が掛かっている状態の写真をみると、たんなる石垣の一部っぽいようにも思えます。
今残っているのは形的に向かって左側の石垣かな??
アプリ大江戸今昔巡り
一ツ橋を渡って東側に徳川御三卿の一橋家の屋敷がありました。
名称は橋のほうが先なので一橋家は地名から名前を取っているようですね。
櫓はあるけれど、この写真をみるとおもっていたような桝形門の形状はないような・・まあ取り壊し目前の写真ということで。
写真の左側は大正時代の写真から想像すると3メートルくらいの石垣が続いていたとおわれます。
ではでは
東京時層地図にいってみましょう。
一橋門の桝形門の形状は残っていますね。
一ツ橋の周りは有名施設ばかり。
北に東京大学、東京外国語大学、
東に陸軍病馬院
西に文部省
明治初期はこんなところにあったんだーと驚き。
江戸時代の蕃書調所(九段下あたりにありました)がこの地に移転して、
それが開成所、開成学校、東京外国語学校、東京大学の源流となっているようです。
東京大学ですが明治30年から昭和22年までは東京帝国大学が名称ですので
この時代は(旧)東京大学というようです。
東京大学は開成学校から転じたということから、この校舎も流用していたのでは??地図と照らし合わせると西側の門からとったように思えます。校舎の前の小さな丘みたいな位置関係もバッチリ。
そして東京大学の対面に位置するのが東京外国語学校
なんとなくぼろっちいような
しかし門の内側のちいさな植え込み、地図そのものですね。
ホームページによると設立時から古かったようで、さらに1885年に一橋大学と統廃合され、当時の外語学校校長は一橋大に跡地を使われて
「軒をかして母屋を取られた」
とお冠だったとか。
それから100年以上たち、東京外国語大学は発祥の地の石碑を打ち立てます。
次は文部省。南側から写真を撮っているようです。
この当時の文部省の長、文部大臣といえば
初代文部大臣 森有礼
森は薩摩藩出身 日本の公用語を英語にしようと試みたことで知られています。
明治初期、それまで全国共通の教育のようなものがなかったので、たとえば薩摩の言葉と会津の言葉ではお互いになにを言っているか全くわからない。薩摩の軍人、大山巌は後に奥さんとなる会津の山川捨松とはお互いに何を言っているかわからず、覚えがあるフランス語が会話の切り口だったという逸話もあるくらいですから、わりと本気で英語化を考えたのではないでしようか。
森はアメリカ人の教育者に書簡で公用語を英語にしようと相談して、その人から自分の国の言葉を大切にするべきという返事をもらってそれ以降は英語公用化というのはやめた という話。だったような・・・
その後、欧米好きだった森は長州藩出身の国粋主義者 西野文太郎に暗殺されます。
他にも森有礼は
商法講習所
という一橋大学の前身となるものを作っています。
文部省、一橋大学と距離が近いのも理由があるのではないでしょうか。
その他、軍医病馬院というのも時代ならでは。
当時は馬もさかんに使われていたんですね。現代でも道路を馬で走るのは軽車両扱いで認められています。
子供の頃、馬で旅する絵本っていうのを見たことがあって衝撃を受けました。ググッてみると馬のごんた旅日記というらしいですが、こんな感じの絵本だったかなぁ・・・
東京時層地図 明治後期
文明開化時からはまたガラリと変わりました。
旧東京大学は本郷へ移転
東京外国語学校は東側に小さく移転
あった場所には高等商業学校(のちの東京商科大学、さらにのちの一橋大学)
なるほど、これが前述した外国語学校の校長がお冠だった理由か~(笑)
外国語学校小さくなっちゃったもんなー
たしかにこれは「軒をかして母屋を取られる」と怒るのも道理かも。
いまでも一橋大学と東京外国語大学はバチバチなんですかね。(そういうのすきねぇーーでも石碑建てるくらいだからね)
大正時代 関東大震災前
軍馬の病院は中央気象台に
高等商業学校は商科大学に
関東大震災後の写真をみてみると、川の護岸は高石垣で覆われていたのかなと思います。
北側には救世軍本営
昭和初期戦前 昭和10年くらい
昭和三年に学士会館ができます。
商科大学の場所に 共立女専学校
南には如水館(一橋大学の同窓クラブ)
さらに南には
外国語学校
が移転。
この辺り一帯は、
東大、一橋大、東京外国語大学、共立女子大などいろいろな学校が集まっている場所ですね。
戦後高度成長期前夜1955年頃
まだ首都高速が張り巡らされる前の状態。
外国語学校は北区西が原に移転、電気通信調整所となっています。
電気通信調整所というのは電電公社の施設でしょうか。けっこう広い施設ですね。
今回は一橋近辺をみてみましたが、
現在の一ツ橋は関東大震災復興遺跡、わずかに残る石垣は震災前は大きな高石垣だったということと、東京大学、一橋大学、東京外国語大学の源流は一緒だったというのが意外な発見でした。