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【港区】青山霊園 大久保利通墓
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青山霊園の大久保利通墓にひとりぶらっといってまいりました。
青山霊園の中で一番大きいと思われる墓です。
大久保利通 1830年~1878年 47歳没 薩摩藩士で明治維新の3傑(西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通)と言われ、明治初期日本の実質上の最高権力者です。
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大久保は1878年 明治11年 紀尾井町の清水谷近辺(現在の参議院議員宿舎前)で石川県の不平士族を中心とした6人に襲撃され死亡します。
石川県は加賀藩で日本一の大藩だったところですから、明治となり立場が逆転した反発もあったのだと考えられます。
麹町の大久保邸から、明治天皇謁見の為の赤坂仮御所に向かう途中だったとのことなので東京時層地図で大久保邸から赤坂御所への道のりを辿ってみます。
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現在のルートだと、自宅のある首相官邸前→国会図書館前→議長公邸→永田町のプリンス通り→紀尾井町交差点を西→参議院宿舎前で襲撃。
この辺りの地形は起伏があり、馬車を御しにくい谷でを狙ったのだと考えられます。
逃げ延びた従者が南側にある北白川宮邸に助けを求めたという話もあります。北白川宮邸まで多少距離がありますが、先にある伏見宮邸に行くよりももと来た道を引き返すほうが安全と思うかもしれません。
余談ですが、1874年 明治7年 岩倉具視も清水坂から少し行ったところの喰違見附で襲撃されています。
大久保利通の墓
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亀の背に墓碑が乗っているのは亀趺(キフ)といって、古くは中国の南北朝時代から日本に渡り、楠木正成墓所や池田、毛利などの江戸時代の大名の墓にみられるようです。
墓碑には死後に送られた官位である「右大臣」と書かれています。
公家出身でない人が右大臣になったのは701年大宝律令以来、鎌倉将軍の源実朝、江戸幕府将軍の徳川家康と、豊臣秀吉のあととり豊臣秀頼のみ。(徳川将軍も8人なっていますが武家官位)
大久保は殿様でもない薩摩の下級藩士、当時の最高の成り上がり天下人だったことがわかります。
明治という新世界でのし上がった大久保利通。
墓所内には巨大な慰霊碑もあります。
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大久保利通が暗殺されたのは明治11年ですから35年ちかく経ってからのもの。
勅撰は重野 安繹 薩摩藩士の文学博士
勅書は日下部東作 大久保に仕えていた彦根藩士の官僚
明治45年9月は明治天皇の大喪が行われているのでその時にあわせてつくられたものだと思います。
こういった碑というのはちょくちょく目にしますが、忠魂碑にあるようになんとなく国がつくっているのかなと思いましたが、個人のものはたいてい身近な有志が造っているんですね。
またこの時期は銅像につづいて碑も流行っていたように思えます。「業績を世に知らしめたい、残したい」そんな手段が銅像や碑だったのでしょう。今はSNSで個人が発信。
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同じ敷地内に襲撃された時になくなった従者の中村太郎と馬のお墓もありました。
今回は青山墓地の大久保墓から東京時層地図をみてみましょう。
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とその前に
江戸時代末期、1860年前後の大江戸今昔巡りから。
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岐阜の大名、青山幸哉(1815年~1863年)の下屋敷と北側は武士の家ですね。
港区の青山の地名になっている青山家です。
青山家は分家もありその敷地も広いです。北側が今の赤坂御所のある紀伊徳川ということからも、徳川家に近い大名だったことがわかります。
江戸時代の地図を見る限りではお墓の形跡はありません。
明治9~19年 すでに大久保利通のお墓は出来上がっていました。
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Wikipediaによると
1872年(明治5年)、美濃郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主・青山家の下屋敷跡に開設された。当初は神葬祭墓地であった。1874年(明治7年)9月1日、市民のための公共墓地となった。1889年(明治22年)、東京府から東京市に移管された。1926年(大正15年)、斎場の建物のすべてが東京市に寄附され、日本で初めての公営墓地となった。
大久保が亡くなったのは明治11年ですから、この辺りの地図はそれ以降ということになります。
地図でみると当時は大久保墓を中心に北側が青山霊園ができた当初の墓石の密集地帯だったようです。
絶大な権力をもっていた大久保でしたが、金銭面は潔癖で私財を投じて公共事業を行っていたたため、私腹を肥やすどころか借金が多くあり、死後に国が大久保が寄付したものを回収して、遺族に充てていたのだとか。
明治後期となると一気に墓の数が増えます。
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明治後期になり霊園の規模が大きくなり、西側には警視庁墓地、南に常陸丸殉職者の墓という記載があります。
警視庁墓地は主に西南戦争(明治10年)の殉職者
常陸丸殉職者墓は日露戦争中(明治37年)の玄界灘で常陸丸がロシア艦隊によって攻撃沈没された事件の慰霊碑。
この事件では1300人以上が亡くなりました。これに関する国会図書館デジタルの資料は300あまりありました。当時の大事件です。
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霊園内には明治期、大久保利通の屋敷近くに居を構えていた大木喬任の墓もあります。
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大木喬任は佐賀藩出身で大久保利通の側近として仕え、家も隣だったことから関係は密だったのではないでしょうか。
明治期の地図 大久保邸と大木邸は隣り合っている。
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ちなみに明治維新前の江戸末期だと
鍋島邸は 御老中 越後村上藩 内藤紀伊守信親
大久保邸は 2千石の 佐野日向守
大木邸は 5千石の 内藤駒次郎
おそらく明治維新にかけては当時の武家屋敷を利用しているとおもわれ、当時の最高権力者にしてはあまり住むところにこだわっていない様子がみてとれますので、大久保は私腹を肥やしていたわけではないという説もある程度妥当とおもいます。
余談ですが大木喬任の娘は栃木の農家に嫁いだとのこと。
これは栃木県出身の私も気になっちゃうところです。
明治大臣の夫人という書籍の中で
大木喬任夫人が、下野の瘤原という所で土地の長の安生何某と会話
「金持ちや華族の家に嫁にやるのはまっぴら、彼らは人情もしらなければ時間の貴重さもしらない、これは人として恥ずべきことで、娘は金持ちにやらないことに決めた」
安生何某はそれならばと農業兼神官の石原何某の息子を紹介して、石原のご子息と大木の令嬢は結婚した
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778815/111
と。
下野の瘤原という記載でしたが
栃木県鹿沼市に古峯ヶ原(こぶがはら)という場所があります。
そこには古峯神社という神社があるんですね。
もしかしたら・・・
さらにしらべてみたところ神主は石原さんという方で、この方はクレー射撃の日本代表で後の麻生太郎元総理とともに選ばれたそうです。(出場はせず)
そして2021年の東京オリンピックでは聖火リレーランナーに選ばれたようです。
麻生太郎は大久保利通→牧野伸顕→吉田茂と続く大久保の血筋
石原さんはおそらく大木喬任の血縁者なのではないかと思います(この120年前の話が本当であれば)
そして次期神主の娘さんはリオオリンピックのクレー射撃の日本代表だったんだとか。
なんたる歴史の偶然。
そしてここには上野教授のお墓もあります。飼い犬だった忠犬ハチ公の墓も。
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仲代達矢が主演した「ハチ公物語」をみたことがありますが、飼い主の東京帝国大学教授の上野英三郎が亡くなってから10年生きていたようです。
この時代に10年以上生きる犬というのはかなり珍しいのではないでしょうか。私が幼少期に飼っていた犬はたいてい3,4年でフィラリアにやられて死んでしまいました。
日本で一番有名な犬といっていいと思います。お花も生けられていました。もしかするとこの霊園で一番愛されているのはハチ公なのではと感じました。
ほどちかくに加藤高明元総理大臣のお墓があります。
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このブログでは過去に市ヶ谷近辺の加藤高明邸をあたったことがあり、私にとってはなじみ深いです。
岩崎弥太郎の娘を奥さんにして三菱グループとの関係も深く、三菱大番頭といわれた総理大臣ですが、お墓は綺麗に整えられているものの、寂しかったですね。
国のトップのお墓が時代がたつとこういう状態で、一般庶民の僕が墓をもつ意味があるのかなと考えたりしました。
個人的な話をすると、父方の祖父は亡くなる前に強烈に墓にこだわっていたんですね、その後、従兄弟が後を継げなくなって墓じまいしました。その間30年。僕は荘子の「大地を柩として空の星々を埋葬品とする、なんの不足があろうか」という考えが好きなのでお墓にこだわりはあまりありません。
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おわりに
イメージとしては青山霊園はずっとずっと昔から墓場だというイメージでしたが、明治までは大名の下屋敷があり、霊園になったのは明治になってから。当初は神式の埋葬方法で鳥居もあり、明治政府色の濃い場所でした。