【千代田区】市ヶ谷門近辺
今回は市ヶ谷門跡を見に行ってきました。東京時層地図や大江戸今昔巡りで周辺地域見をみていきたいと思います。
市ヶ谷御門は1636年に美作津山藩主 森長継によって築かれました。
森家は18万石あまりの大名。
赤坂御門が築かれた時も1636年、この時代に赤坂~牛込の御門が築かれたようです。
将軍は徳川家光、1635年に武家諸法度改訂、大名に参勤交代を命じていることからこの時期に各大名の体力を削っている様子が見てとれます。
在りし日の市ヶ谷門の姿がコチラ 外堀の外側から市ヶ谷門をみた写真です。
ずっと橋を渡しているというイメージだったのですが、橋の部分は短いです。これならば橋を落とせば侵入不可。
市ヶ谷門は現状で5,6個の石垣跡を残すのみです。
毎回同じ感想ですが無いものにしちゃうのはもったいないと。
外堀の埋め立ては1970年代まで続いたことから、前時代の史跡を残していくのは難しいですね。
1860年前後の江戸末期(アプリ大江戸今昔巡り)
外堀の御門をみていくと、
四谷見附は甲州街道の終着点(外堀の内側は尾張徳川屋敷)
赤坂見附は大山街道の終着点(外堀の内側は紀伊徳川屋敷と譜代大名)
虎ノ門は徳川の菩提寺増上寺のすぐ裏
ということで江戸城に至るまでの防衛ラインが敷かれているのですが、市ヶ谷見附にはそれほど防衛を固めているわけでもないように見えます。
地形的に外堀が広くて深いのと街道に面していないので、ここは手薄でもよかったのではないでしょうか。
市ヶ谷の外堀の外側にあたる場所は江戸時代は尾張徳川屋敷なのでその裏にあたる位置関係もあるのでしょう。(現在の防衛省)
地図を見てみると外堀の内側には武士の家がたくさんあります。
その中の武士の家の一つをみてみましょう。
枡形門の南側にある 佐久間雄四郎 邸
これは司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の登場人物
秋山好古 1859~1930年 と関係があります。
明治42年 大演習写真帖
佐久間家は秋山好古が居候していた家で、将来的に好古が結婚することになる奥さんは佐久間家の3女の多美。
弟の秋山真之は俳人正岡子規の親友で、海軍軍人。
この話はNHKのドラマになっていて、秋山好古役が阿部寛で多美が松たか子
沢山いる武士の家から適当にチョイスしましたが、スゴイの引き当てちゃいました。
佐久間屋敷は現在の 千代田区五番町3-1 五番町グランドビルあたりです。
市ヶ谷見附から側をみた写真、市ヶ谷橋の長さに濠の長さが確認できます。
市ヶ谷から飯田橋方面
この辺りの外堀の景観は良いです。赤坂見附から飯田橋までの外堀跡は国指定史跡になっています。
明治9~17年 1876~84年
明治4年に市ヶ谷御門は取り壊し。
明治32年に見附枡形を撤去することになったようです。道路の危険を除き利便を増進させる為との事。
明治41~42年 1908~1909年
市ヶ谷駅は1895年(明治28年)甲武鉄道の駅として開業
四谷から市ヶ谷方面を見た図、白い建物は陸軍士官学校(現在の市ヶ谷駐屯地)甲武線の蒸気機関車が走っています。(明治44年東京風景)
濠のカーブの先が市ヶ谷です。
市ヶ谷門跡のちかくに榊病院、濠の外側に近藤邸 という存在が気になるところです。市ヶ谷八幡も見えます
榊病院
産婦人科医 榊順次郎 (1859年ー1939年)が開いた病院と思われます。日本の産婦人科の大家で、他には脚気の原因は白米にある毒素にあるという説をたてた人でもあるようです。
名士奇聞録 明44.11
「先生は若いのにどうしてそんなに禿げているの?」
「これはベルリンに居た時にあちらの美人にペロリとなめられたからだ」
いわく、ペロリン土産
明治時代の本に登場するくらいですから、有名だったようですね。
近藤邸
近藤廉平 1848ー1921年
徳島藩士(藩主は蜂須賀氏)→三菱商会→日本郵船三代社長→明治44年男爵→大正10年スペイン風邪で死去
近藤邸もジョサイア・コンドル設計のようです。
この豪邸は戦時中まで地図では確認できるのですが、戦後は無くなっていることから戦災で焼失したのだろうと考えられます。
近藤廉平の次男、近藤廉治は1933年 昭和8年に不良華族事件に関係し、徐族。
不良華族事件(ダンスホール事件)
当時は姦通罪が適用されていた時代で、赤坂のダンスホール フロリダの主任ダンス講師が警察に検挙され、相手と目されていた吉井徳子は伯爵柳原義光の次女で、夫は伯爵吉井勇。
「NHKの朝ドラ 花子とアン」に登場する白蓮のモデルになった歌人柳原白蓮の姪にあたり、柳原白蓮は大正天皇の従姉妹にあたる
うーん当時のマスコミが騒ぎ立てそうな話です。
懐かしいなぁ、2014年の「花子とアン」は見てました。
徳子の遊び相手は近藤廉治夫妻、歌人斎藤茂吉の妻で、これによって近藤夫妻は華族の身分を剥奪、斎藤茂吉と夫人は疎遠に。
この当時は男性が夫人を何人も持つことも、お妾さんをもつことも結構散見されるので、姦通罪っていうのは男性にとって都合がよい法律ですね。現在もアメリカ東部、イスラム圏などにあります。
ダンスホール事件については国会図書館デジタルに情報がありませんでしたが、赤坂ダンスホール フロリダについては求人情報がありました。
多くのダンサーを雇っていたようで、給料は8時間労働で月5、60円から300円 昭和初期で今に換算するといくらくらいでしょうね。
市ヶ谷八幡
市ヶ谷見附から見た図
当初は市ヶ谷御門の内にありましたが、江戸時代1636年の外堀完成時に移転
明治の廃仏毀釈で別当寺の東円寺が廃寺、その後の戦災によりご神木なども消失。
戦後の高度成長期前夜1950年代の地図をみてみると、近藤邸も神社も榊病院一体もスカスカになっていることから、このあたりはほとんど燃えてしまったと思えます。 次回は訪問したいです。
1950年代
今回は市ヶ谷御門跡近辺を昔の地図でみてみました。御門跡としては寂しいものですが、市ヶ谷から飯田橋までの遊歩道からの外堀の眺めは、江戸時代からの眺めを思い起こせる雰囲気もありました。さすがに外堀全体が史跡となっている場所です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?