【新宿区】新宿三丁目ビームスジャパン界隈
この訪問時は10月の中頃でした。この時暑くて半袖でも大丈夫でしたね。
このころから体調を崩し始めて、まともだったのは11月上旬ぐらい。
これも体調悪い所から良くなったからよく感じただけです。
いや本当に寒くなるのはこたえますね。(今は良くなりました。)
49歳になりましたが、さすがにもう若者の延長線上にはいられない衰えを感じます。なるほど諸先輩方皆さんこういう感じを体験しているのだと。
私のやっているスポーツも今後どんな感じでやっていくか。
もはや若者と体力の削り合いをしている時期ではなくて、自分にあった量の筋トレを主軸にしたほうがいいのではないかという気もします。
物事には何事にも終わりがあるのでどのタイミングでおしまいにするか、それともそういうことを考えずにやっていくか。まあ、考えずにやっていった方が自然なんだろうな。
いろいろと考えると結果、やらなくなるという結論になるのが私の普通ですから、考えたら止めてしまう結論にいたるものをあれこれ考える必要なんてないんです。
なんでも考えたらいいってわけでもない。
訳が分からない導入ですが、この日はブラジリアン柔術のステッカーを買いにビームスジャパンに行ったのでありました。
ビームスに柔術ステッカーが置いてあるなんて時代は変わるものです。
ビームスなんていうと僕おしゃれさんなのかと思いきや、僕は全然おしゃれじゃなくてユニクロの値下げ消費を買いあさって、ビームス店員さんのコーディネートを真似て100m先くらいから同じように見える感じにしているだけです。(ユニクロは基本アイビーなので、アイビー好きの店員さんと似たものを組みやすい)
現代の地図
現代の地図から見ていきましょう。新宿といっても、東口と西口があり、こちらは東口。
北側は歌舞伎町。
大久保公園周りは未成年の立ちんぼ行為でネットなどで有名になっていますが、私は16,7年ほど前に比較的近くで働いていたことがありましたので、土地勘はありますが、当時はハイジアまわりに外国人が立っていました。
陰鬱な雰囲気で苦手な場所でしたが、美味しいラーメン屋さんが何件かあったのでこのあたりでお昼を食べていました。
今のアパホテルのあたりに、インドカレー屋があって食べに行ったら、ナンをおいてある籐っぽいお皿に、小さいGがウジャウジャいて、ウワーって思いましたね。インドっぽいと思ったと同時に、インドに行くのは無理だなとおもいました。
今、グーグルマップでみたら再開発でだいぶ様相が違っていました。
靖国通りを隔てて、南のアルペン東京の場所は、できた当時はヤマダ電機で一兆円企業として話題になっていた時期でした。
さらに20号を超えると新宿御苑やお寺。
こうしてみると、縦800m 横400mほどの区画で世界の違ういろいろなものが凝縮されているのが新宿東口ですね。
明治9~19年1876~1886年
いかがでしょうか?ごらんください。
新宿駅も歌舞伎町も靖国通りもありません。
青梅街道につながる新宿通りと、甲州街道があり甲州街道沿いには玉川上水が流れています。
いまの新宿三丁目の交差点って、旧街道の交差点なんですね。
明治39~42年 1906年~1909年
○ 新宿駅 1885年 明治18年 開業 この時代は1906年の改良工事後でしょうか。東口近辺の地名は渡邊といっていたようですね。
○ 歌舞伎町のあたりに突如として大村邸があらわれます。
大村邸は大村純雄伯爵邸 養父の戊辰戦争での活躍により、明治24年に伯爵になりました。池も立派で、鴨狩を楽しめたのだとか。
この時代の鴨狩は鉄砲でバンバン撃つものではなくて、飛んできた鴨に飼っているアヒルを紛れ込ませて、罠に誘い込んで一網打尽にするというものというのの昔しらべたことがあります。
大名貴族の遊びですね
今は皇室が引き継いでいるそうです。
いまでも歌舞伎町に弁天祠があるのはこの時の池の名残なんですね。
○ 北の大久保病院は1879年設立
○ 現在地はすでにこの時代建物が密集していたようです。明治初期には竹林や桐林、茶畑、畑だったところがあっというまに。これが駅の力か。
○ 天龍寺の北の雷電神社、今も小さい鳥居と祠が確認できるこの神社ですが、昭和3年に花園神社に合祀されているようです。
合祀されたあとも祠と鳥居があるということは、どういうことなのか。
周辺の方々の信仰を集めていたのでしょうね。
場所的にみて天龍寺の一角だったようです。
関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年
○ 大久保病院は隔離所 当時死亡率一位の病気、結核の隔離所です。結核の死亡率一位は昭和20年代まで続きます。
○ 大村邸は買い取られて、淀橋浄水場が出来た際の土砂で池は埋め立てられました。あれだけの規模の池を埋め立てるのはなんかもったいなく感じますね。
○ 現在の歌舞伎町のど真ん中には 第五女学校があります。
なぜ女学校ができたかというと、大村邸跡を買い取ったのは尾張屋銀行の5代目、峯島喜代が資金および土地を東京府に提供したことから始まるようです。
喜代は当時として珍しい女性経営者。だから女学校なんですね。尾張屋は今も健在で、「クレスト」という名前の物件は尾張屋の所有物件のようです。
○ 現在地は建物が密集していて、よくわからなくなっています。
現在の伊勢丹の建物は都電の車庫になっていたようです。
○ すごいのが現在地南にみえる京王電気軌道 いわゆる京王線です 大正5年 1916年に追分新宿駅ができます。京王線の終着駅はここだったんですね。
昭和初期戦前 昭和3~10年1928年~1935年
○ 角筈一丁目の一番地が多いような気がする・・・
○ 京王線は追分新宿駅から、四ツ谷新宿駅に移転。なるほど!だからその場所に今は京王のビルがたっているんだ。
1945年の空襲で、新宿初台間の天神橋変電所が被災して、それによる電圧低下で新宿南口の橋を電車が上がれなくなったために、現在の場所にターミナルが作られたそうです。
この話、新宿3丁目の交差点に行ったら話せるネタですね。
○ 関東大震災後の都市計画で、靖国通りが出来つつあるので、明治通りができています。
○ 新宿三丁目の交差点に伊勢丹ができました。1933年 昭和8年オープン 今も現役バリバリの昭和建築ですね。
○ いまさら気が付きましたが、この地図はビームス新宿の前で撮ったものでなくて、旧三越の前でした。
三越は昭和5年にできます。
現在ビックカメラ東口店としてありますが、建物は三越伊勢丹が所有ということで、建物は当時のままなのかな。壊して立て替えたという記述がみあたりませんでした。
あの白い外壁をはがすとこの建物があらわれるのでしょうか。
高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年
○ 新宿東口前に 二幸 という建物が 食料百貨店で「海の幸、山の幸」とあわせて二幸という名称のようです。
親会社が三越。三越の台所のような存在のようです。新宿店は1978年に閉店し1980年に一部の敷地で新宿アルタができます。
○ 第五女学校は中野に移転。1956年に新宿コマ劇場ができます。
バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年
区割り的には現在とそれほど変わらないのではないかとおもいます。
現在地だけでいったら明治後期から現在まで建物密集地帯で地図上では三越が出来たくらいしかわかりませんでした💦
付近には大きい交差点が多いので、この道と先の新宿三丁目の交差点が昔の街道とその合流地点だったとは意外でした。
交差点には新宿追分であることを示す石標があるようです。
機会を見つけて写真を撮ってきます。
明治初期の地図だけみると、世田谷とあまり変わりがないのですが、やはり路線の力は大きいですね。