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【港区】麻布十番

有栖川宮記念公園から歩いて麻布十番に来てみました。

有栖川宮記念公園近辺のお高い感じとは変わって下町の雰囲気でした。
ちょうどお祭りの時期だったので余計に下町感を感じたと思います。

こちらは善福寺

善福寺はもともと弘法大師空海の開いた真言宗のお寺でしたが、お寺のお坊さんが親鸞聖人と会ったことによって、天台宗から浄土真宗に改宗。なんたる親鸞の影響力。弘法大師空海がこの辺りを高野山に模して造ったといわれている場所だけに、まわりの人からすると「え!なんで!」となること間違いなし。

奥の銀杏が麻布七不思議の逆さ銀杏でしょうか。
親鸞が地面にさした杖が成長して、銀杏になったといわれています。

奥に一番目立つ元麻布ヒルズフォレストタワー 森ビル渾身の仕事ですね。場所は違いますが、麻布台ヒルズは建築の30年前に社員寮を立てて、周辺地域を買っていたということがわかりました。
社員の一生をかけて仕事をしているんだという深遠さに驚きました。

おそらくこの麻布台ヒルズも新入社員が定年になるくらいの遠大な計画のもとに建てられているんでしょうね。
こん棒のような見た目の好き嫌いは別れるところだとおもいますが。


麻布十番の中心地とおもわれます
向かいのおもちゃ屋さんには祭帰りの子供たちが吸い込まれていきました。当然我々も吸い込まれました・・・・ここに訪れたのはしばらく前なのですが、本日、子供と話したらなぜかまたここに来たいといっていました‥‥家から結構遠いです。
こちらは「赤い靴~履いてた~女の子~異人さんに連れられて~行っちゃった~」でおなじみの赤い靴の女の子の像。 

私はこの像を見るまで赤い靴の話はずっと横浜の話だとおもっていました。
女の子が赤い靴を履かされて異人さんに連れていかれた歌だと。

しかし実は違ったのです。

様々な説があるのですが、ここでは定説の赤い靴の女の子は「岩崎きみ(佐野きみ)」説をとります。

きみちゃんは3歳で一家の北海道開拓の際に生活があまりにも厳しく、アメリカ人宣教師に養子に出されます。

母親はアメリカ人宣教師夫妻とともにきみちゃんはアメリカに渡ったとおもっていましたが、きみちゃんは結核にかかって渡米できず、9歳でこの近辺にある鳥居坂教会の孤児院で亡くなったと。
きみちゃんと年の近い娘を持つ私としては、この話はなんとも胸の苦しくなる話です。

今から10年前の2014年の上半期、NHKで「花子とアン」という朝ドラがやっていて、それは赤毛のアンの翻訳をする村岡花子をモデルにした作品だったのですが、この村岡花子が孤児院に教師として出向いていた時期があるので、接点があったともされています。

花子とアンについては、村岡花子と親交のあった柳原白蓮のことも取り上げられ、古地図を探索していると柳原白蓮の名前には突き当たることがあります(大正天皇の従妹の為)

麻布十番には浪花家というたい焼きやさんがあります。こちらは大ヒットした「およげたいやきくん」のモデル。1975年に発表された歌で、僕が小学校に入る前にテレビで盛んに流れていたのを記憶しています。こちらも赤い靴のきみちゃんとは違った意味で、胸にグッときますね。昔を思い出すという意味で。

ということで、今回は東京時層地図で麻布十番をみてみましょう。
例のごとく地図の範囲を広げ過ぎましたが、たまにある事です💦



現代の地図

麻布十番の西側には善福寺、賢祟寺があります。賢祟寺は鍋島家の墓所があり、敷地内には鍋島ハイツという高級マンションがあり、今も立て替えて パークコート元麻布ヒルトップレジデンスという超高級マンションが建っているとのこと。北側には村岡花子と柳原白蓮が学んだ東洋英和女学院  歴史的にみて名門ですね。

大江戸今昔めぐり 1855年頃

なるほど、鍋島家の屋敷がある。他の大名は規模が小さいので、この時代は麻布十番は多くの社寺の門前町であると同時に鍋島家御用達の町であったと。昔から町が発展していた様子が見てとれます。麻布七不思議が産まれるのも納得。

明治9~19年 1876~1886年

地図の範囲を広げ過ぎて訳が分からなくなってごめんなさい。

○ 青丸の現在地の南西の高台には鍋島下邸との表記あり。明治維新後に大名は住んでいるところを新政府に取り上げられたりしましたが、ここに江戸時代からの屋敷があるということは、こだわる場所だったのかもしれません。ちなみにこの時代には鍋島家は各所にみられますが、明治維新後で8家くらいあります。各々地図に残るくらいに名前が残っているのですから、さすがに勝ち組大名は強いです。

○ 北東の高台部分には井上邸とあります。これは井上馨邸です。この時代、外務卿として鹿鳴館など欧化政策を推し進めたことで有名です。

鳥居坂は本邸として明治20年に天覧歌舞伎が行われたとのこと。
9代目市川團十郎、5代目尾上菊五郎、初代市川左団次が勧進帳などの演目を上演。
これによって歌舞伎は9代目團十郎の目論見どおり、高尚化したとのこと。

イメージとして伝統芸能は歌舞伎が有名と思っていたのですが、能狂言は室町時代から貴族の間で続いていて、歌舞伎は江戸時代庶民のものだったのですね。

ここでなるほどと思ったことが一つ。

話は横道にそれます。

先日、区の催しで国立能楽堂に能狂言を見に行きました。


狂言の舟船は和歌の素養があればより面白くみられるでしょうし、能の小鍛冶は一条天皇やヤマトタケルなどの故事に通じていればより面白くみられるでしょう。能狂言をみながらウトウトとはしましたけど、思い出には残りました。

前説で観世家の方が、

「今、国立博物館にある観世正宗という刀はもともと観世家のもので、徳川家に献上せよといわれて、当時は絶対に断れないので献上して、明治維新後は有栖川宮家に行ってしまった。有栖川家が没落して(有栖川宮は亡くなったので高松宮が跡をついだ)刀は国立博物館に渡った。もともとは観世家のものだから返していただきたい。ご賛同ください。」

と本気とも冗談ともとれぬ話をおっしゃっていました。

要するになにが言いたいかといいますと、能狂言は貴族のものなんですよね。400年前の刀の行方なんて庶民にはわからないです(笑)

明治39~42年 1906年~1909年

○ 明治後期になるとガラッと様相が変わります。
南東には渋沢邸、南西には松方邸。
今まで確認していた渋沢邸は、飛鳥山と清澄庭園近くの渋沢邸でした。
三田網町の渋沢邸は渋沢栄一のお気に入りだったそうです。

○ 鍋島邸はなくなってその場所が賢崇寺になったように見えます。鍋島家の菩提寺なので、なにかあったのでしょうね。お寺の敷地内も過去に鍋島ハイツがあったことから、いまでも関係があるのかも。

○ 現在地の北側も変遷凄まじい 天覧歌舞伎をした井上邸はなくなりましたが、赤星邸、川崎邸、三条邸、御用邸、久邇宮となり東側には島津邸が。

このあたり一帯は大名家(島津)、公家(三条)、政府御用達実業家(赤星)、財閥(東京川崎財閥の川崎)、宮家(久邇宮、この宮家は昭和天皇の后である香淳皇后の実家で、皇位継承者不足となっている今、皇籍復帰の有力者なのだとか。)

○ 赤い靴の「きみちゃん」が亡くなったのは明治44年で、鳥居坂の途中にある学校が東洋英和女学院、きみちゃんは永坂町50番地の永坂孤女院にいたということから、この時期は現在地の北側にいたのでしょうね。

陽と陰ですね。


関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年

○ 三条邸の北の御用地が、李王世子邸になりました。この時期紀尾井坂にあったと記憶していましたが、ここにもあったのですね。

李氏朝鮮高宗の七男で韓国併合に伴って日本の王族になっています。大正5年、梨本宮家の王女方子と結婚。なかなかドラマがあるなぁ。

○ 現在地は下町と有名人邸宅のコントラストが濃いですね。


昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年

○ 赤星邸が岩崎邸になります。赤星邸は関東大震災で崩壊して移転。
この赤星氏で興味深いのが、日本にブラックバスを持ち込んだご本人のようです。(本人の遺稿による)

持ち込んだのは赤星さんだけれど、日本各地に広げたのは様々な釣り人なのでしょう。近年、生態系を壊す魚として有名ですが、僕の子供の頃1980年代はそんなに有名ではなかったです。本ではみるけど釣れない幻の魚みたいな感じでした。(それは現在もそうで、別種のコクチバスというのが釣れるようです)

個人的には(日本固有種を守るために外来種は根絶やしにせよ作戦)は好みじゃないです。子供の頃に生き物をいたずらに殺しすぎてしまったのと、その思想が拡大すると人に及ぶんじゃないかという気がして。さすがに考えすぎですね。

○ 賢崇寺は昭和11年の226事件の将校22人の墓所があります。当時は国家反逆罪で引き取りてがなく、首謀者だった栗原中尉の父が佐賀県出身だったことから、鍋島家の菩提寺のこのお寺に相談したとのこと。

226事件関連は、近衛1,3連隊のあった六本木ミッドタウンと新国立美術館、高橋是清暗殺場所となった高橋是清公園、本拠地としていた場所に立つ赤坂プルデンシャルタワー、処刑場所となった渋谷区役所、そして墓所の賢崇寺とこれで完結でしょうか。

高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年

戦後のこの時代も変遷は続きます。

渋沢邸は大蔵大臣邸
松方邸は韓国代表部
岩崎邸は国際文化会館
ドイツ大使館やメキシコ大使館があります

麻布十番は明治初期から人口密集地帯なので変わらないようにみえますが、実際は変わっているのでしょうね。

都道415道 通称麻布通りができています。近年名前がつけられましたが、当時は名前がなかったとのこと。


バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年

バブル期、まだまだ変遷は終わらない

首都高がはしり、大蔵大臣は三田会議所となり・・・

私の根気と体力も4000字で尽きました。
今回はこれくらいでおしまいにしたいとおもいます。

麻布十番近辺は思ったよりもはるかにいろいろな歴史がある場所でした。
また、たい焼きをたべに行きたいとおもいます。

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