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【中央区】数寄屋橋交差点
東急プラザの「ずかんミュージアム銀座」に行った帰りに数寄屋橋で東京時層地図。
見た感じは上には高速道路が通っている車通りの多い場所。
このあたりは銀座と有楽町に挟まれた大人のお洒落スポットでもありますね。
数寄屋橋公園の傍らには数寄屋橋の碑があり由来が書かれています。数寄屋役人の住宅が橋の外にあったから数寄屋橋というようです。
数寄屋橋公園。岡本太郎の作品が目印です。
数寄屋橋の交差点、これといってどこにでもある高速道路の高架下という感じの場所です。
現在の地図。
明治時代初期の地図 予想を上回る大きさの内堀ですね。
数寄屋橋門というのがあったのは驚き。桜田門と同じような枡形をしています。江戸城三十六見附の一つです。西に山下門というのもあります。
ここは江戸時代から外堀を隔てて屋敷と町人街があったことがわかります。
今の日本橋2丁目にも数寄屋町があり、ここから移転して名乗ったのだとか。だからここは元数寄屋一丁目。
他に上野不忍池の南にも数寄屋町があり、こちらは芸妓の街だったようです。
数寄屋ってそもそもなんでしょうか。もとは小さな茶室のことを数寄屋といっていたようで、現在では高級な和風建築のことをさしています。
数寄屋橋御門は現在の有楽町マリオンの前あたりです。
宝くじで当選者が続出するといわれている「宝くじ西銀座チャンスセンター」もほぼ同じ場所。数寄屋橋御門跡でチャンスをつかめ!!
数寄屋橋御門
いいですね。雰囲気ありますね。残っていれば間違いなく名所ですね。
東海道名所風景で広重の浮世絵にもなっています。
そしてこれが出来形絵図。
堀の感じが写真にも浮世絵にもバッチリ一致しています。元数寄屋町の記載もあります。
こちらは数寄屋橋御門の南にある山下門
江戸城見附では一番小さいようです。こういうのをみると江戸城三十六見附、無くなったのが惜しいですね。ただ在り続けるとすると広範囲に交通の支障がでるから仕方ない所なのかもしれません。
明治後期
数寄屋橋御門は明治期に取り壊され、埋め立てられています。
ちなみに西側にある学校は泰明小学校。
大正7年の写真 現在の建物は昭和の建築なので関東大震災で焼失前の校舎でしょうか。再度訪れたいとおもいます。
現在中央区の特認校で区外からも生徒をうけいれ、少人数制で運営しています。そして募集より多かった場合は選考が行われます。
泰明小学校は2018年に学校の制服がアルマーニ製を採用したことで話題になりました。歴史ある学校にかっこいい制服。いいですね。
アルマーニでもジョルジオとエンポリオでは話が変わってきますが、うらやましいですね。
僕もジョルジオ・アルマーニでジャケパンスタイルをしたいというのはかなり古いかな・・・いまならグッチかバレンシアガとかマルジェラといったところなのでしょうか。
永遠のユニクラーの妄想です。
大正期 関東大震災前 1920年頃
埋め立てられて堀はほそくなりました。数寄屋橋の北に有楽座があります。
明治41年 1908年 ~ 大正12年 1923年 関東大震災により焼失
日本初の全席椅子の洋風劇場。古くから文化文明の街ですね。
昭和戦前 1935年頃
関東大震災後の昭和4年に石造りの数寄屋橋という橋ができました。下の写真でも確認することができます。左側は朝日新聞東京本社。
手前の工事中の場所は建設中の日本劇場。昭和8年完成なので写真は昭和6,7年でしょうか。
朝日新聞東京本社は1927年 昭和2年完成。1936年昭和11年に226事件で襲撃される。1980年昭和55年に築地に移転。
こちらは昭和8年完成の日劇 この当時でみると大きい建物です。
戦後高度成長前夜 1960年頃
日劇と朝日新聞は空襲を免れています。戦災焼失地域をみるとこの辺りも含まれているのですが、残っているということは意図的に空襲はさけられ残されたものではないかとおもいます。
バブル期
1984年に有楽町マリオンができます。ウィキペディアによるとかつてここには大岡忠助で有名な南町奉行所があったとの記載がありましたが、南町奉行はもうちょっと北ですね。ここでは江戸三十六見附の数寄屋橋御門があったという事を推したいとおもいます。
ちなみに1860年頃の地図だと
南町奉行所 池田播磨守頼方 3千石
池田頼方は旗本で安政の大獄時の南町奉行で、奉行を3度歴任したという珍しい例で優秀な人だったのでしょう。奉行所跡の碑もあるのでそれも撮りにいかなければ。
数寄屋橋の碑の北西には明治大学発祥の地の碑があります。
島原藩の上屋敷を使っていたとのことなので、明治期の地図にはないながらも萬里小路家の南側の屋敷が島原藩の屋敷のようです。
今回は数寄屋橋公園から東京時層地図をしてみましたが、また訪れて写真などをとって再更新したいとおもいます。