【中央区】水天宮近辺
三月中旬のまだ寒い時期、水天宮に行ってまいりました。
周辺は碁盤の目のような区画で、歴史の長いだろう商店もあって空気感が良かったです。
水天宮は福岡にある久留米水天宮の分社となっています。
水天宮は江戸時代、久留米藩藩主の有馬家に崇敬されていましたが、1818年に9代目久留米藩主の有馬頼徳が水天宮の分霊を申し立てて、福岡県久留米市から三田の有馬邸に分霊。
明治になって有馬邸が赤坂に移転するとともに水天宮も移転し、さらに移転することになって、有馬邸の中屋敷があったこの地に移転。
安産祈願の神社でお産の軽い犬にあやかったて犬の像もありました。
戌の日を安産祈願の日として祈願しているようです。
そして水天宮の現在の宮司さんは有馬家17代当主。33歳までは一般企業勤務でしたが、神田明神で修業をしてこちらの神主となったとか。
現在も水天宮と有馬家はガッチリとつながっているんですね。
さて、この水天宮の御祭神は
・天御中主大神(あめのみなかぬしのかみ)
・安徳天皇(あんとくてんのう)
第81代天皇 源平の戦いで敗れ、壇ノ浦にて入水 8歳 (1185年)
・建礼門院(けんれいもんいん)
父 平清盛 母 平時子(にいのあま)
18歳で高倉天皇の中宮 平徳子 安徳天皇の母
・二位の尼(にいのあま)
平清盛の正室 平時子 安徳天皇とともに入水。
都内の神社は源氏に由来、源氏の信仰を集めていた神社が比較的多いのですが、こちらは平家由来の神社となります。
有馬家は平家に由縁があるのではないかと思って調べたところ、
平家には由来していないようです。
赤松家出身の有馬家でその後、戦国時代、江戸時代、明治時代、現代と生き残り続けているのは摂津有馬家のみ、摂津有馬家は水天宮を代々大切にしてきたということを考えると、それだけでも霊験あらたかのように思えてきます。
総本宮のある福岡県久留米市、筑後川沿いにある水天宮も御祭神は一緒です。(当然ですが・・・)
水天宮本社の由来は安徳天皇の母につかえていた按察使の局(あぜちのつぼね)伊勢が1190年に水天宮を建て、加持祈祷を請われて行っていた所、霊感あらたかであったために尼御前とたたえられ信仰をうけ、尼御前神社と呼ばれます。
その後、平知盛(平清盛の4男)の孫、右忠を養子として、そこから現在にいたるまで代々子孫が宮司をつとめ、22代宮司は真木和泉守で蛤門の変で新選組に追い詰められて自爆死(1864年)。現在は29代目。
うーむ。これは思っている以上の歴史だぞ…
水天宮のほど近くにも小さなお社がありました。浜町神社というようです。薩摩の島津家の土地だったので島津稲荷と呼ばれているようです。
さて、話はもどりまして、今回は水天宮付近を東京時層地図で見ていきたいと思います。
現在の地図
碁盤の目のようになっています。
日本橋蛎殻町という地名ははっきりしていないものの、昔は牡蠣の貝殻の堆積した浜だったということが由来のようです。
1855年くらい 江戸時代末期 大江戸今昔巡り
江戸時代末期の地図では、有馬家も薩摩島津家も近辺にないです。
水天宮は三田の有馬屋敷にあるというお話でした。
この地図からすると、明治維新で一番わりを喰っているのは旗本かなとおもいます。
大名は華族になるけれど、このあたりに住んでいた旗本はプライドは高い、仕事はない。大変だこりゃ。
明治9~19年 1876~1886年
○ 現在地は有馬邸になっています。明治維新後に移動してきたようです。それと同時に水天宮も移動。有馬邸でお祀りしていたようです。
○ さらに東は有馬小学校。有馬小学校は現在でも中央区として幼稚園とともにあります。創立明治6年 1873年 創立150年超の小学校というのはもっとも古い小学校の一つ。
○ ちょっと南には日本橋区役所という表記もみえます
○ 東側の大きな大名屋敷跡は旧松山藩主の久松邸となっています。(江戸時代は違います)浜町公園に久松邸跡という看板がありますが、実際にはもうちょっと西側にあったように感じます。
明治39~42年 1906年~1909年
○ 有馬邸の表記はありませんが、水天宮になったように思われます。
○ 南にある日本橋区役所ですが、この場所は今も日本橋区民センター、出張所としてあります。
明治初期から区役所があり続けるという場所は今までなかなか見たことがなかったです。日本橋区(中央区)のおそらく用地がないのだろう人口密度の高さを感じます。
関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年
○ 過密すぎて地図では変わりがあまりわかりません。
土州橋という橋が唯一目立ちます。
いまでは箱崎ジャンクションの下になっているのでもう見ることはありませんが、この土州橋の開通式は華々しく行われたとのこと。
https://xn--chuoku-machikadotenjikan-zk4ws282g.jp/feature/special12_nihonbashi07.html
○ 大正6年の 東京の解剖 城西隠士 著 という本に
縁日では西側の豊國銀行から水天宮までは54種類の露天商がならび、
水天宮から土州橋に至るまで易者34人を始め、羊羹の切り売り、書生の歌本売り、せり売り、鰹節削り器、などなどが並び、水天宮表門には二十数軒の御供え餅売り、裏門には植木屋が並んでいたとのこと。
このあたりかなり繁盛していたようです。
昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年
○戦災焼失地図によると、このあたり水天宮より西側は戦災焼失を免れています。
たとえば築地の明石町はアメリカ人が設立にかかわった聖路加病院があったこと、横網町の病院はアメリカ出資だったことで、戦災焼失を免れたという理由はつけられますが、箱崎から人形町にかけての区域が戦災焼失を免れているのは、偶然としか考えられず、そうなってくるともはや水天宮のご加護という見方もでてくると思います
高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年
有馬の水天宮。
有馬・・・そういえばどこかで聞いたことがあると思って調べていたら
有馬というのは有馬記念の有馬さんか!
競馬の年末の祭典、有馬記念の由来になっている有馬。
有馬家15代当主有馬頼寧 よりやす さんが中央競馬界理事長だったときに提案し創設。1957年に有馬氏が亡くなり、第2回から有馬記念に。
うーん 競馬は大分やっていないけれど、まさか水天宮から有馬記念に行きつくとは。
バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年
有馬家と水天宮の歴史を辿っていくと、なにやら本当に御利益がありそうな気がしてきました…
ちなみに水天宮の神紋は二つあり、ひとつは有馬家のもの、ひとつは水天宮の紋です。
高野山の寺紋も一つは豊臣家、ひとつは元からあった神社のものでした。
二つあるのはなかなか珍しいですね。