【新宿区】尾張徳川屋敷→陸軍士官学校→陸上自衛隊市谷駐屯地、防衛省
市ヶ谷の防衛省(の周り)に行ってみました。
見学ツアーもあるようなのでのちのち申し込みたいですけど、月~金だと時間ないですね・・・
この門構え。国防の要となる防衛省、ピリッとした空気を感じます。
今回は正面玄関ではなくこの位置から東京時層地図をみてみます。
1860年前後の江戸末期
尾張中納言慶勝 徳川慶勝 尾張徳川14、17代藩主
徳川慶勝は松平容保の兄弟。
弟の容保は会津藩主として新政府に徹底抗戦していますから、どちらが良いかというと難しい所だとおもいます。民草としてはなるべく自分が傷つかないほうを選びたいですし、特権をもっている立場なら奪われまいとするだろうし。立場によって変わってくるでしょう。僕は民草なのでそういう行動をするかな。
引用文に 東海道、中山道沿道の大名、旗本、寺社にたいして新政府に忠誠を誓わせた とあるのですが、やはり街道の寺社は防衛ラインとして存在していたようです。
市ヶ谷の尾張屋敷はとてつもなく巨大です。
東と西に御殿があって楽々園と名付けられる巨大な庭園に大きな池。
宋紫岡の絵によると富士山が見えるので、東から西に向かって描いたものでしょう。
また、楽々園焼といわれているこの庭で焼いた天目茶碗(陶器)もあったようです。
明治維新後の地図をみてみると・・・
陸軍士官学校と東京鎮台砲兵営
陸軍士官学校については詳しい方がWikipediaに書かれているので写真拝借。
東京鎮台は1874年佐賀の乱及び1877年西南戦争に出動。
1888年より第1師団に改編。
話変わりますが以前、四谷の須賀神社近辺を回ったときに、谷の部分は江戸~昭和初期にかけて貧民窟であったということを調べました。
明治26年に松原岩五郎が 最暗黒の東京 というルポルタージュを書いています。
松原は貧民窟の親方であった清水屋弥兵衛に頼み、残飯屋という仕事につき、その残飯の調達先はこの陸軍士官学校。
士官学校は総勢1000人を超える場所で、そこからでる残飯を15貫目50銭にて引き取り、貧民窟で1貫目5,6銭で売っていたとのこと。1貫目が3・75㎏
5人家族で飯二貫目、残菜2銭、つけもの1銭で合計14,5銭が一日の食料費だったようです。 その他、いろいろな出費があると一日30銭がかかる。
当時のうどんそばが2銭だったことを考えると、現代に換算して、そばを500円とすると250倍だから、30銭だと7500円。そんなにかかるかな・・・ちょっと計算微妙なところですが。
明治後期
中央幼年学校は13~15歳の将来陸軍将校になるための全寮制学校。
当時の陸軍先進国であるドイツ語、フランス語、仮想敵国であるロシア語が必須だったとか。戦時中在学した人の中に作家の西村京太郎の名前もありました。
大正時代 震災前
1920(大正9年)に、従来の陸軍中央幼年学校本科が陸軍士官学校予科に
昭和初期
戦時中なので改描されていると思いますが、学校なのでそれほどひどい改描というわけでもなさそうです。建物は戦後とかわらないような。
高度成長期前夜 昭和30~35年頃 1950~55年
1959年(昭和34年)自衛隊の駐屯地が市ヶ谷にできます。地図はちょうどその境目あたりでしょうか。
1970年(昭和45年)11月25日 衝撃的な事件がおこります。
人気作家の三島由紀夫が東部方面総監を人質にとり、憲法改正と自衛隊の決起を促す演説をしたあとに切腹自殺
いわゆる三島事件
この事件について、当時の中曽根防衛庁長官ののちの回顧録に
菜根譚にあるように操守は厳明を要するも激烈なるべからずだった。
(意思は明確に出さなければいけないが、行動は激烈ではいけない)ということを述べています。さすがは100歳超えまで生きた首相経験者。
私は20歳くらいのころは三島由紀夫が好きでよく読んでいました。小説読むといったらまず三島由紀夫じゃないですか。潮騒、禁色、憂国、金閣寺、仮面の告白、etc.
事件を知ったのは大分後の話です。
三島小説は今も不動の人気で、歴史の波に消えずに残っていますが、本人は苦悩に満ちた人生をおくり、決死の覚悟の演説もヤジにかき消され相手にされず、最後は切腹介錯で首と胴体が生き別れ。まったく幸せな生き方ではないですね。
後に吉本隆明が三島由紀夫、太宰治の幼少期に触れていてこんな幼少期では自殺するわということを言っていたので、幼少期というのはその後の人生の分かれ道を選択する判断を養うためにとても大切な時期なんだと思いました。
ということで、自分の事はさておいて、手が離れるまではなるべく子育てにはかかわっていきたいと思っています。
1980年代バブル期
バブル期は市ヶ谷駐屯地。
そして現在は防衛省となっています。
今回は表玄関だけだったので、機会があれば施設内見学もしてみたいです。