【江東区】枝川、潮見運動公園
潮見運動公園から辰巳にかけて釣りをしようと思って訪れてみました。
東陽町の上州屋でイソメを買ってバスに乗ると豊洲方面に行けるので
途中下車でこの地にたどり着きました。
対岸は枝川です。
潮見運動公園の北側の運河は
「対岸の住民の方のクレームにより釣りは禁止」
という看板があります。
こういった住民の方のクレームにより釣り禁止とはっきり書かれた看板は観たことがありませんでした。
たしかに夜のシーバスのルアー釣りはシュッ・・・・シュッ・・・シュッ・・・と竿の風切り音と、ポチャンとルアーを放る音が聞こえてくるわけですから、カンに障る人がいるといえばそうなるかもしれませんね。
今回はここで東京時層地図を開いてみてみましょう。
ちょっと範囲を広げすぎました・・・・北側に木場と東陽町の駅も写っているし、文字もあまり見えない。でも広げなければ前回やった辰巳と場所変わらないんですよね・・・いたしかたなし!
ちなみに魚は全くつれませんでした。潮見運動公園の運河筋しか歩いていないので写真等もありません・・・
現在の地図
この近辺は埋め立て地の為、大正時代まではなにもありません。
関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年
明治後期からの東京湾みおさらい工事ででた海底の土砂を埋立地に利用。
枝川の原型がありますね。
塩浜のあたりが小栗飛行練習場となっています。
晴海あたりも田中飛行学校研究所があったり、この時期から昭和初期にかけては東京湾沿岸は飛行学校が林立していたようです。
小栗飛行練習場のオーナーの小栗常太郎はアメリカ帰りの飛行家で・・・とどこかに書いてありましたが、小栗常太郎は当時珍しかった車フォードB型も日本に持ち込んでいるらしい。
国会図書館デジタルで調べたところ一番古い記事では明治28年の官報で勢徳丸の船主ということも書かれている。
更に明治43年の全国銀行会社決算報告によると東京自動車株式会社の取締役とある。東京自動車株式会社とはなんだろう。この時期だと自動車の国内生産はまだだから、海外からの自動車輸入販売なのかもしれない。
さらに調べると日本橋の興業貯金株式会社の取締役、大正8年には興業無尽銀行の取締役としても名前が・・
順序だてると
船主に自動車会社取締役に銀行取締役に飛行機パイロットに飛行機学校校長。
船主時代の明治28年は1895年
銀行取締役時の大正8年は1919年くらいか?
四半世紀。なにものなんだ小栗常太郎。
うーん・・・こりゃ同一人物なのか??
同姓同名なんじゃないか?
歴史の中で後世に大きく名前を残すことなく、消え去っていったスーパーマンの一人かもしれませんね。
○ 北側の洲崎はこの当時、吉原と双璧をなす遊郭だったようです。これもまた別個で記事を作りたいと思います。8月には行けるでしょう。
昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年
○現在地は六号埋め立て地
○枝川1丁目と枝川2丁目は完成。1丁目に消毒所と塵芥焼却所
○小栗飛行場跡地は塩崎町となっています。シオの字がよくわからないですが・・・そして澄青混合所という場所があります。アスファルトの混合所だとおもわれます。
高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年
戦後
○ 八号埋め立て地には塵芥焼却場が移転したようです。
○ 塩崎町には野球場ができています。東側も埋め立てが進んでいるようです。
○ 枝川ですが、戦時中で中止になった1940年東京オリンピック開催の為に、都内に散らばっていた在日朝鮮人の方々がここに集められてコリアタウンを形成したようです。
戦後は北側にある洲崎の遊郭も歓楽街として復活し、治安は悪く、戦後に枝川事件という事件も起こっています。
橋の架かり方も北側にしか架かっていないという歪なつくりです。
バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年
○ 潮見運動公園は昭和43年にナイターのできる野球場、テニス場です。
○ 枝川についてはYouTubeで詳しく上げている方がいたので紹介して終わりたいと思います。運河筋に大きなマンションを建ててぱっと見中の様子がわからないようになっているんだなと思いました。
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