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【世田谷区】若林の世田谷区立教育総合センターで世田谷を実感。

所用で世田谷区の教育総合センターにいってまいりました。電車でいくと小田急線世田谷代田駅から徒歩20分あまり。

道中も起伏にとんでいて世田谷という地名ピッタリだなと思いました。普通に歩くには上がって下がっての道が多くて疲れますね。

世田谷の地名は、永和2年(1376年)に「世田谷郷」で見える。
地名の由来には、浅瀬の開拓の意味で「せたかい」、台地の間の狭い小谷の意味で「せとがや(瀬戸ヶ谷)」といった説がある。
また、世田谷区内の瀬田に由来し、「瀬田の谷地」の意味で「世田ヶ谷戸」の略とする説もある。

語源由来辞典


世田谷区教育総合センター


できたばかりの綺麗な施設です。
現代の地図

バブル期

教育総合センターができる前には若林小学校がありました。

若林小学校

1871年(明治4年)太子堂郷学所として開校。もともとは三軒茶屋にあったようです。

2019年(平成31年・令和元年)旧若林中学校跡に移転。

150年近い歴史を持っています。

他には

環七と十字路になっている道路(淡島通り)、西側でクランク状になっています。不自然ですね。なんだか権利関係でいろいろとありそうな場所です。 

1955年あたり 高度成長期前夜

1964年の東京オリンピック前の地図です。環状七号線、環七がありません。

環七は1964年の東京オリンピック開催にあわせて整備されたようです。

淡島通りのほうが先にできていたようです。

淡島通りもここで途切れていますが直進すると学校にぶつかっちゃうからここで途切れているのかなとも思えます。

当初は権利関係で揉めて淡島通りがここで途切れたのだとおもいましたが、学校にぶつかるから途切れたのかな。

地図の北側と南側は現在は緑道になっていますが、川がありそれに向かってなだらかな谷になっています。まさに谷。

この一キロあまりの距離に谷が2つあることになりますね。

まさに世田谷です。

東京は自転車だと結構きついんですよね。渋谷、世田谷、千駄ヶ谷、市谷、気がつけば谷ばかり。


昭和戦前

戦前

戦前、世田谷区役所はこの場所近辺にあったようです。

いまの環七沿いの大型家電量販店(ビックカメラ)です。

世田谷区役所
東京市職員写真名鑑
顔写真と生年月日と出身地と学歴と住所付き いまの時代では考えられないですが、当時はむしろ世の中に名前がでるということが誇りだったのではないでしょうか。現代になるにつれて個よりも顔の見えない集団の時代になりました。

関東大震災後で、銀座や浅草からの人口が郊外に流出している時期ですが、移住した先の世田谷は、起伏も結構あり当時の生活ぶりは大変だったのではないかとおもいます。

大正時代

大正時代関東大震災前。

代田本村、若林本村という集落の中心に学校があります。

若林小学校の長い歴史が垣間見えますね。

松陰神社には桂太郎の墓もあるようです。

桂太郎

山口県萩市出身 11,13,15総理大臣 大正2年没
1848年~1913年

若いころは今の俳優の浜田岳ににてますね。

桂太郎は幸徳秋水の大逆事件の時の総理だから良く思わない人もいるでしょう。新宿の市ヶ谷監獄跡の慰霊碑(大逆事件の慰霊碑)には以前いきました。

明治後期

明治後期に学校が出来ています。

この周辺地域では長い歴史を持っていることがわかります。

名前が付いているのはこの地域で3つだけ。

円乗院 真言宗豊山派

画像を見ながら思ったのは、周辺に高いビルがないので、今、目にしている風景と明治期の風景、おそらく一緒なのではないかと思いました。そう考えるとなんて事はないこの景色も味わいがあります。
円乗院は戦国時代の世田谷城の防衛拠点の一つだったようです。なるほど城っぽいといえばそうですね。



宮前橋 

宮前橋というからには宮様の邸宅があるのかなとおもったのですが、周辺には円乗院があるだけ。そこに神社もあるように地図上からはみえるので、その宮前ということでしょうか。 北には代田八幡神社があるのでその宮前ということも考えられます。

環七ができるのが1964年の東京オリンピックの時、そのわりには橋が古すぎるように思えます。さらに古いのではないでしょうか?

松陰神社 松陰神社は名前の通り、長州出身の吉田松陰を祀り、名づけられている神社。

1882年(明治15年) 創建

明治維新とともに出来た神社です。

松陰神社の西には豪徳寺がありまます。

吉田松陰が死罪となった安政の大獄(1858年)を行った当時の幕府の大老井伊直弼のお墓があり、井伊家の菩提寺です。

松陰神社と豪徳寺はバチバチなのか気になる所です。

同じ対立構造でみると平将門を祀っている神田明神、平将門討伐の為の成田山新勝寺がありますね。


明治初期

なにもないですね。

二つの川に挟まれた台地ですので、江戸時代だったら田んぼも畑も広範囲できて生活がなりたつので、台地に集落ができていたと思われます。

今は家々に覆われてしまって、環七が通り車がビュンビュン通るのでそういったことには目がいかないですが、150年前は長閑な景色が広がっていたようです。


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