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【世田谷区】下北沢

ちょろっと下北沢にいってまいりました。
下北沢のユニクロは家からなんとなく行きやすい場所なんです。
それでも片道30分はかかりますが・・・

駅前で東京時層地図を開いてみました。

現代の地図

下北沢は現在再開発で大きく姿を変えています。
小田急線が地上を走っていた時代に観劇や北沢タウンホールに何回か訪れたことがある程度だったのですが、駅が地下に潜ってからは結構行っています。

下北沢といえば俳優の柄本明さんがママチャリに乗って走っている姿が時折みられるのが名物でもあります。
圧倒的オーラがあり、目が合うと目線をそらしてしまいます。


地形図です。まさに谷地であり沢ですね。どちらかというともっと南が下北沢というのにふさわしいとおもいます。

明治9~19年 1876~1886年

田畑ですね。そしておもったよりも集落になっている様子がわかります。

ひときわ目立つのが南にある

森巌寺(しんがんじ)

浄土宗のお寺 浄土宗といえば徳川系。
 
徳川家康の次男、結城秀康の位牌所として1608年に建てられたようです。
結城秀康の遺言によって寺が建てられることになり、えらばれたのがこの地。
お寺内はところどころに徳川の紋があるようです。

淡島通りの由来となっている淡島堂があるのもこの地。
淡島堂は天保7年 1836年 建築

針灸の有名どころであるということを昔テレビでみたのを思い出しました。

下北沢を取り上げるなら、まずはここを取り上げるべきでしたね。
これもまた次回。

結城秀康はある程度人気がありますね。
徳川家康の次男であるのに、生母が正室の奥女中だったことから冷遇され、御三家でなかったとか、実質として秀吉の人質として養子に出されたとか、悲運的なところが人気になるのでしょうか。

高野山にある結城秀康石廟は国の重要文化財になっています。(写真は3月に奥之院に行った時のもの)

高野山奥の院 結城秀康石廟
高野山奥の院 結城秀康石廟
高野山奥の院 結城秀康石廟


明治39~42年 1906年~1909年

現在の下北沢の駅周辺は新屋敷という名称だったようです。住居は数えるほどしかないですね。数軒が集まっていて、田舎でよくある風景のようにおもえます。


関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年

北側に薩摩という表記があります。薩摩藩由来のものだと想像できますね。1600年代には薩摩藩の抱屋敷があったようです。
それにしてもなにもないといえるくらいにのんびりとした風景が想像できますね。川沿いで魚とりなどもできたでしょうね

ちょっと川の跡に行ってみました。地図で薩摩と描かれている場所の南側の橋の部分です
現在は暗渠になっているのでしょうか 

昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年

関東大震災後に夥しい住居の数が。このインパクトは毎回本当にスゴイです。関東大震災後の浅草や銀座などからの人口流入と、その当時、日本全体の総人口がうなぎ上りだったことと、小田急線と井の頭線の開通したことが重なっているのでしょう

1927年 昭和2年 小田急線 下北沢駅開通
1933年 昭和8年 帝都電鉄 下北沢駅開通


高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年

戦災焼失地域地図をみると、このあたりは駅は焼けるも周辺の住宅は空襲を免れているようです。少し北にいくと笹塚まで焼失地域になっています。

戦後日本の復興が早かったのも、明治以降、戦争時を除いては日本の総人口が増加し続けていた勢いの中にあったからでしょう。

2011年以降はずっと人口減少を続けていますので、同じような局面になった場合は、厳しいことになるとおもいます。


バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年

道も入り組んでいるし、地形もアップダウンが激しいし、住むにはそれほど適していた場所ではないとおもうのですが、路線が2つ乗り入れているというのが最大の強みなのでしょうね。


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