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【文京区】順天堂大学本郷キャンパス周辺

自転車で順天堂大学のあたりを通ったときに東京時層地図を開いてみました。このあたり台地になっています。上京して東京は自転車がキツイとおもったのを思い出しました。今は電動自転車なので楽々です。

現代の地図

場所は東京ドームの水道橋から東に坂を上がったあたりとなります。
順天堂大学 A棟 一見歴史的建築物に見えたので立ち止まって写真を撮ったのですが、2020年竣工とつい最近のこと。人目を惹くという点では明治建築っぽいものは看板として最良だとおもいます。

順天堂大学のHPをみてみると明治40年当時の写真がありました。関東大震災で崩れてしまいましたが、まさにA棟とそっくり。いや、A棟がそっくりにつくられています。

順天堂大学のシンボルです。

明治40年の順天堂大学。

地形図

半島をざっくり割る形で神田川が通っています。徳川秀忠の代で工事。平地を掘るのも大変ですが、こちらは山。大変な事業だったことがわかります。茗渓といわれ、御茶ノ水近辺は風光明媚な土地として知られたようです。

A棟の対面の神田川ですが、写真でみるよりも谷が深く感じられ、往時をちょっとだけ想像できました。

茗渓

ガードレール越しに神田川の様子をうかがうことしかできませんが、ちょっとした川べりの遊歩道なんかがあったらなかなか良い場所になるんじゃないかなともおもいますが、この鬱蒼とした感じが雰囲気を出しているのかもしれません。

ちなみに江戸時代末期1855年代のA棟の場所は表高家 前田主馬 1400石 となっていました。 官位のつかない旗本のようです。


明治前期 明治9~19年

○ 江戸時代東側にあったのが昌平坂学問所、明治にはいって東京師範学校と東京女子師範学校となっています。

地図で見えているのが東京女子師範学校。これがのちに大塚に移転してお茶の水女子大学となります。

○ 順天堂も現在地の東側にあります。明治8年に下谷から移転。江戸時代末期は火消し役 内藤外記 五千七百石の屋敷。

順天堂大学の由来はちょっと変わっていて、現在の神奈川県川崎市生まれ 佐藤泰然(1804~1872)が「1838年(天保9)江戸日本橋薬研堀に居を構え、蘭医学塾「和田塾」を開いた時に始まる。」とありました。

シーボルトの弟子の高野長英に学び、いわゆる蛮社の獄では罪に問われた高野長英との関係から幕府からにらまれた存在だったのだとか。

その後は佐倉藩家老渡辺弥一兵衛に招へいされ千葉佐倉に移住。
順天堂を開院。帝王切開もやっていたようです。当時の最新医療でしょう。

その後は養子の佐藤尚中が下谷練堀町に順天堂を設立し、明治8年にこの地に移転。

多くの大学は明治期以降の有力者に由来するものが多いので異質の大学といえます。

○ 神田川沿いに線路がないのでいまよりもっと木々が生い茂り、渓谷らしさもあったのでしょう。

○ 今の都立工芸高等学校の場所は松平邸となっています。

○ 北東の大きい区画は前田邸と東京大学。

○ 北西の赤い建物は文字がよくわからなくなっていますが、本郷真砂の警視梅毒病院ということがわかりました。

かなり広大な規模です。江戸時代には病院的なものはなかったので、明治期になって作られたのでしょう。

明治になって梅毒病院が各地に設置され、明治30年(1897年)に「伝染病予防法」制定され、1905年初めて梅毒のスピロヘータをドイツのシァウディンとホフマンによって発見され、1909年にドイツ人のエーリッヒと日本人秦によりヒ素をふくむサルバルサンがみつかり、梅毒の治療に用いられるようになりました。

https://www.dermatol.or.jp/qa/qa24/q02.html



明治末期

路面電車も走りはじめました。神田川沿いには中央東線(中央線)ができて、有名だった渓谷も規模縮小。それでも写真のような雰囲気。

瀬川光行 編『日本之名勝』,史伝編纂所,明33.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/762809 (参照 2023-11-02)

ずいぶん橋が低いような気がします。これがお茶の水橋なのかな。
となると左奥の建物が高等師範付属中学校となるわけか。

明治後期までこの辺りにある橋は、水道橋、お茶の水橋、昌平橋しかないのでまちがいないところだとおもいますが・・・

お茶の水橋は明治24年完成 

明治37年には中央線も橋の下を走り、路面電車は橋の上を走ったという事なので明治24~37年の狭間の写真。

○現在地の北に給水工場ができています。

明治25年(1892)東京市水道局が買収し給水場を建設、1898年に配水池が完成した。

https://www.city.bunkyo.lg.jp/hongokyusuijo.html

現在は本郷給水所公苑となっているので、機会をみつけていってみたいとおもいます。道路側からだと高台になっているのでなにがあるかわからなかったです。

○真砂町の梅毒病院はなくなりました。あれだけ大きな施設だったのにいわゆる春日通りの開通とともになくなった感じです。

○順天堂大学も改築して大きくなった様子。

大正期 関東大震災前

関東大震災で本郷区は台地上で建物の倒壊ほとんどなしと書かれていましたが・・・

https://www.jaee.gr.jp/stack/submit-j/v03n01/030101_paper.pdf

屋根瓦が滑り落ちて、むき出しになった板に火の粉が降りかかって、火災によって全焼してしまったようです。




昭和初期戦前

○この時期、現在地に病院のマークがあるので順天堂大学が勢力を広げた様子がみえます。

○南の駿河台は日大、中央大学、明治大学と大学がひしめています。まさに文教地区といったところ。

○給水所は白抜きに。戦争期に突入している時代なのでライフラインは白抜きされています。

高度成長期前夜 1955年頃

多くの江戸城外堀は高度成長期前夜を境に上に高速道路が走ったり埋め立てられたりするのですが、この場所はそういったことにはならずに、地図的には明治後期の形をのこしているともいえます。

谷の深さがあって江戸時代は橋が架けられなかったので、交通の便が良くなかったのも幸いしているのかなとも思います。

バブル期 1990年頃


東西南北の選択範囲が広すぎて情報が詰まりすぎてしまいました。

北の東大も行かなきゃいけませんし、南の駿河台にも行かなきゃいけません。

通りすがりでしたが、順天堂大学の由来を知ることができたのが収穫です。

順天堂と東京医科歯科大学

参考:順天堂大学 https://www.juntendo.ac.jp/about/corp/history_ayumi/index.html

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