【千代田区】牛込御門跡 飯田橋駅西口
市ヶ谷御門跡から外堀沿いに北にあるき、牛込御門跡(飯田橋)に行きました。おもった以上に石垣が残っていました。
様々な案内の看板などもあり、外濠一帯は史跡として力を入れている場所であるということもわかります。
寛永13年 1636年 徳島藩の2代藩主 蜂須賀忠英らによって築かれます(千代田区観光協会には1639年に築かれたと)1636年は外堀の見附が続々と作られた年ですね。
ちなみに赤坂御門を作ったのが黒田家で、牛込御門が蜂須賀家、共通点は豊臣秀吉の取り立てで大名になった一族。(黒田如水に蜂須賀小六)
四谷御門は毛利家、虎ノ門は鍋島家、市ヶ谷御門が森家。森家は豊臣姓をもらっています。
やはり外堀工事は外様大名の力をそぐための事業の一つだったということが見えてきます。
この場所も市ヶ谷御門と同じく外堀の内側を大名で固めているわけではなさそうです。
ぎりぎりで大名の(1万2千石)武蔵金沢藩 米倉丹後守昌寿
息子の昌言は佐幕派で長州征伐に参加したものの、戊辰戦争では新政府に恭順。
武蔵金沢藩の初代、米倉 忠仰(1706~1736年)は柳沢吉保(1659~1714年)の子 柳沢吉保は5代将軍徳川綱吉の懐刀として活躍した人物で、巣鴨の六義園を綱吉からもらって屋敷にしています。
吉保が大老格になったのは1706年、忠仰が養子になって米倉家を継いだのが1712年。米倉氏を辿っていくと1636年頃の米倉昌純は400石の旗本だった様子。
三千石の旗本 永井房之助
二千石の旗本 曲渕左衛門 らのお屋敷もあります。
神楽坂から牛込御門を見た図。
江戸時代の地図には飯田橋はないですが、この時代の地図にはあります。明治14年 1881年に外堀をまたぐ橋がかけられ飯田橋と命名。
国会図書館デジタルでお世話になっている詩人、児玉花外先生の東京印象記。この先生は口が悪くて、悪口しか言っていない印象(浅草、道玄坂など)だったのですが、牛込見附はいたくお気に入りの様子で、
「気に入っている、好い、なかなか詩趣がある、昔の江戸時代という感じが胸に充実してきて懐かしい」
などとべた褒めです。
見落としていましたが、明治後期から牛込御門近辺に朝倉病院があります。
朝倉病院は大正に入ってから逓信博物館として利用されます。
院長は朝倉文三、日本泌尿器科学会の創設者のようです。60歳で病院閉鎖、のちに東京慈恵会医科大学教授。
http://jikei-ur.umin.jp/about/history.html
市ヶ谷には産婦人科の大家がいましたが、こちらは泌尿器の大家です。
地図の南に済生会病院があります。明治天皇恩賜である済生会病院と陸軍軍医学校は密接なつながりがあったものと思われます。
関東大震災後は2つとも戸山町(現在の癌研病院)に移転。
関東大震災で壊れたから戸山の尾州侯(尾張徳川)の庭園に建てたと。田村林学博士曰く「空前絶後の大庭園」これをなくしてしまったのはもったいない。
この尾張徳川邸は軍事学校ができたり住宅が建ったり戸山公園になったりで名残はわずか。残っていれば名所になったはず(明治以降は陸軍戸山学校などの軍事施設が建設される)680mの地下道を各施設ともつないでいるとも書かれているし、これは今もなにかありそうですね。
逓信博物館は大正時代にあった朝倉病院の建物を利用したようです。
陸軍軍医学校と済生会病院は移転し、逓信病院ができます。
逓信病院は郵便や通信を管轄する逓信省の職員や家族の為につくられた病院です。昭和13年1938年開設
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