【千代田区】江戸城、平川門から天守台へ
平川門から皇居東御苑にいってみました。
庭園といえばお金が発生するところですがなんと無料。
入口は持ち物検査あり。
皇宮警察のお膝元なので、日本一安全な庭園ということになると思います。
あ、厳重さでは迎賓館でした。あそこは目が厳しかった。
平川門からの枡形門からの石垣、坂、石垣、やっと登って大奥、本丸。こりゃ攻めにくいぞと興奮しました。
江戸城を攻めるなら平川門から攻めるのは厳しいですね。
同じ江戸城でも平川門と日本武道館がある田安門と別世界と感じるほど。
小学校時代にお城好きだった僕にとってはたまらない構造です。
今回は平川門から天守台から大手門に出るまでを東京時層地図を絡めてみてみたいとおもいます。
こちらは当初は徳川家御三卿の田安、清水、一橋家の登城口だったのだとか。
一橋家は平川門の西側にあるのでわかりますが、田安、清水家はその名を冠した門が現在の北の丸公園にあるようにちょっと離れた場所なので、面倒だったでしょうね。
帯曲輪門(おびくるわもん)といって、江戸城内ででた糞便や遺体を運び出していたといわれてます。
1855年くらいの地図には不浄門という表記があり。
アプリ 大江戸今昔巡り 江戸城内には第13代正二位内大臣征夷大将軍徳川家定 とありましたので1853~1858年の間の地図ということになります。
しかし、最近のお気に入りスポットが糞便運び出し処だったなんて・・・
いやむしろそれが良い。
東京時層地図の明治初期を見てみましょう。大江戸今昔巡りとそれほど地形は変わっていません。
そもそもこの場所が江戸城の本丸で、将軍と大奥の生活の場所、徳川時代の中心だったのですが、
明治以降は工兵作業所になっているところがなんとも栄枯衰勢を感じさせます。
「憎き徳川を倒し、おらが薩長が天下を握った。徳川本丸の跡地は兵隊の作業所にでもしてやろう」
という意思を感じさせます。
地図をみると明治政府は現代も脈々と続いているんだなと思いますね。
だからこそ、我々一般市民も徳川跡地には入ることができると。
むしろ、徳川遺構である本丸を一般公開してくれて有難うございます。
僕は栃木県出身なので、薩長明治政府、坂本龍馬とか西郷隆盛とかにはあまり心理的な肩入れはしきれないんですよね。
ただもう日本は明治政府なんだから仕方ない。賜りものをありがたく享受させていただきます。
汐見太鼓櫓跡から坂道を上がっていくと、右手に比較的新しい建物があります。書陵部とかかれています。
東京時層地図の明治初期
それにしても江戸末期から明治初期にかけて、本丸はほとんど更地化されてしまったみたいですね。
大江戸今昔巡り 1855年頃
五十三間多聞という表記があります。石垣の上に立てられた櫓で強力な防御施設だったようです。
五十三間というのは96m およそ100メートルの巨大な櫓が建っていたということを考えると
惜しいですね。明治政府惜しい。取り壊したの惜しいですね。
さらに南には1から4の側長局と書かれています。
これがいわゆる大奥で1棟に2.30部屋がある施設だったようです。多いときには2,3000人の女性が働いていたのだとか。
うーん 徳川幕府は女性で回っていたのか。と浅い感想をしながら天守台にいってみます。
千代田区の公式ページより
江戸城再建計画もあるみたいですが、360年前に幕府が再建を止めたわけだし、明治政府は今も存続中ですし、まぁ・・・
次回も皇居東御苑を歩いてみたいとおもいます。
さすがに1回では終われません!
かなりテンション上がっていたので、帰りみちに警官の方に
「ありがとうございました!」
とあいさつしまくり、門をでた後は
「あー死んで生まれ変わったら皇宮警察になって江戸城を警備したい」
と娘6歳に言ったら
「死んだら生まれ変わりなんてないでしょ」
といっていました。
僕は最近、世の中バーチャル説、マインクラフト説、シミュレーション仮説、ゼロポイントフィールド仮説もありなんじゃないかなと思っているんですよね。
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