【千代田区】プルデンシャルタワー、ホテルニュージャパン、力道山、226事件。
一時ですが、赤坂の弁慶濠で釣り、ビックカメラでおもちゃ見学、サイゼリアでご飯ということがパターン化していたことがありました。
このビックカメラでおもちゃ見学というのが一緒に過ごせる時間は少ないのに子供だけで玩具遊びしていて、僕が立って待っているというのはなんとも時間の無駄を感じてしまいます。
おもちゃ売り場に行くのがクセになってしまったので、断ると泣くしどうやったら良いのかわからなくなってきました。
娘にとってはわけわからないところに連れていかれて父親がスマホで地図みながらなんの変哲もない周りの景色の写真撮ってるなんて、彼女にとっても時間の無駄なんですが、なかなか苦心するところです。
地図を見ればみるほど、面白いところはもうどんどんと湧いてくる。
今後は小さな公園に当たりをつけて攻めていくというのが良策でしょうか。
幹線道路から一歩入ったあたりって相当面白いんですよね。(六本木とか麻布とかもしかり)
さて、
赤坂見附近辺でひときわ目を引く巨大なビルがあります。
プルデンシャルタワーです。
外資系大手生保のプルデンシャル生命保険の名前を冠したこのビル。
私は貧乏で保険にあまり縁がないので今回調べるまで、プレジデンシャルだと思っていました。
国内有数ゴリッゴリの外資系生命保険会社というイメージです。
日本における創業者は坂口陽史氏(2002年1月に逝去58歳)
プルデンシャルタワー 竣工2002年11月28日 坂口氏はタワーの完成を待たずに50代で若くして亡くなったことになります。なにか鳥肌がぶるっと・・・
今回は近隣の東急プラザからプルデンシャルタワーを眺めながら東京時層地図を見てみたいと思います。この地下にサイゼリアがあります。
明治初期
現在の外堀通りですが、明治初期には本当に外堀です。地図で見る限り水の流れは滞って沼地、湿地帯という感じですね。
当時の宮内省用地、現在の議長公邸となっている場所をアプリの大江戸今昔巡りでみると(写真にはありません)
江戸時代には
出雲松江藩 松平出羽守定安 18万石
初代藩主松平直政は徳川家康の次男の結城秀康の3男でこの家系は譜代大名ですね。
松江藩は幕末には佐幕派のちに新政府に恭順
プルデンシャルタワーのある場所は空き地のようになっています。
ここは江戸時代には
和泉岸和田藩 岡部筑前守長寛 5万3千石
の土地です。
岡部家初代は岡部長盛といって武勇に優れた戦国武将だったようです。小牧長久手の戦い、関ヶ原の戦い、大阪の陣で活躍。
徳川家譜代大名ですね。
明治に入り、長寛の後を継いだ岡部長職が活躍します。
第二次桂内閣司法大臣、第二次松方内閣東京府知事
譜代大名が明治維新を過ぎて新政府側の要職につくのは結構珍しい例です。(明治維新を柔軟な10代前半で迎えたというのもあるとおもいます)能力の高い優秀な人だったんでしょうね。
あ、思い出した。
渋谷区の代々木体育館近辺は岡部家の下屋敷でした。岡部池という池があるお庭は非常に立派だったそうです。岡部長職のことについても書いていました…なにか聞いたことある人だなと思った…汗
明治後期
細長い建物が立っていますが、プルデンシャルタワーの場所には目立った建物は立っていないようにみえます。
さらに南をみますと、日枝神社の北の
星ヶ岡
マンガ「美味しんぼ」の岡星のモデルの星岡茶寮のようです。
美味しんぼのキャラの海原雄山は北大路魯山人がモデルとして有名ですが、昭和というか明治大正の人物像なんですね。
大正時代
現在の日比谷高校あたりには
村井邸
今の日比谷高校の門は村井邸の門なのだとか。
こちらは村井吉兵衛、明治のタバコ王 京都出身
昭和2年の恐慌で村井財閥は破綻。村井邸は土地を東京府に買い取られ、府立一中となります。
第一次世界大戦で景気が良くなって、投機に発展して高騰しその後暴落して破綻という図。
有名なこの絵の時代ですね。なにかお顔が似ているような・・・
村井吉兵衛を調べていくと任天堂の創業者 山内房治郎
は同郷で旧知の仲だった村井の伝手で「花札とトランプ」の流通網を確保。
任天堂は最初は花札を売っていたということは聞いたことがありますが、明治大正の話だったとは。
今の任天堂があるのも村井吉兵衛の手助けがあったからかもしれませんね。
プルデンシャルタワーの場所は池が付いている建物ができたように見えます。池付きの大きなお屋敷です。
この場所は昭和初期に入って「山王下 幸楽」となります。
この料亭はのちに昭和を揺るがした大事件にかかわります。
昭和初期戦前
場所は定かではないですが赤坂溜池にはフロリダというダンスホールがあり、当時はダンスブームでそれにまつわる上流階級のスキャンダラスな事件などがおこり耳目をあつめたようです。
こちらは1930年代の四谷のダンスホール(昭和10年前後かと)
なんともまあ口が悪い。そんなに俗な本じゃないんですけれど。
下田老女子というのは実践女子学園の設立者で教育者の下田歌子のことで、華族女子学校の教授もつとめ、のちに学習院に統合された際には校長の陸軍大将乃木希典と対立するなど、当時の男社会にとっては思い通りにならない煙たい存在だったのでしょうね。
文化の隆盛極めたダンスホールも日中戦争が激化する1940年(昭和15年)には全館閉鎖となります。
さて、
1936年(昭和11年)2月26日
226事件勃発
226事件関連の場所は多く回りました。多く回ったというか都内の古地図を辿っていくと226事件にぶつかるという言い方が正しいです。
これまでも
歩兵1連隊、3連隊(六本木ミッドタウン、新国立美術館)
首謀者らが処刑された衛戍監獄(渋谷区役所)
暗殺された大蔵大臣高橋是清邸(高橋是清公園)
プルデンシャルタワーの場所は当時は 山王下 幸楽 という料亭で 事件を起こした26日夜に数百人が立てこもり、軍事演習だとおもっていた料亭スタッフは27日朝のラジオでクーデターがあったことを知ってびっくり仰天。
幸楽はもとは日比谷のお肉屋さんだったので肉料理中心で皿に肉を盛ったスタッフが大わらわで働いていたのだとか。
南側の山王ホテルは司令部となっていたようです。
尊皇討奸 の旗印はこの時のスローガン
高度成長期前夜 1955年頃
幸楽は火災によって焼失。移転先でも再び焼失したそうです。
幸楽跡地はこちらの地図から数年後の1960年(昭和35年)
藤山愛一郎
藤山財閥、第一次、第二次岸内閣外務大臣
がホテルニュージャパンを建てます。
当初は高級住宅にする予定が、1964年の東京オリンピックを当て込んでホテルにしたようです。
そして1963年、地下のナイトクラブ(ニューラテンクォーター)で
プロレスラーの力道山が刺され、その傷が元で死亡します。
ちなみにニューラテンクォーターと名付けられたのは、焼失しなくなってしまったこの地にあった米兵用慰安ナイトクラブ「ラテンクォーター」から着けられているとのこと。
ということは地図にあるのが先代の「ラテンクォーター」ってことか。
バブル期1990年前後
1970年代に入ると藤山愛一郎が政界入りして株を手放したことにくわえて藤山財閥の業績が悪化し、
1979年(昭和54年)息子の覚一郎が
横井英樹
にホテルニュージャパンを売却。
覚一郎と横井英樹の関係は会社の社長と大株主にあたります。
そして
1982年(昭和57年)ホテルニュージャパン火災という大事件が起こります。全焼し33人の方がなくなります。これによって横井英樹は服役、イケイケだった実業家も転落の道をたどることになります。
火災の後は廃墟になっていましたが
1996年に解体工事、千代田生命が再開発事業に着手したものの
2000年に千代田生命が経営破綻
千代田生命を回収したプルデンシャルが後を引き継ぎ
2002年にビルが完成。
しかし創業者はビルの完成を待たずに58歳で逝去。
まとめますと
226事件拠点 幸楽(焼失)
跡地の慰安ナイトクラブ、フロリダ(焼失)
ニュージャパンをつくった藤山財閥(経営不振による財閥消失)
ニューフロリダで力道山刺され、亡くなる
ニュージャパンを買った横井英樹(建物焼失、服役)
再開発した千代田生命(経営破綻)
プルデンシャル創業者(完成待たずに死去)
議長公邸、日比谷高校、日枝神社という都内随一の聖域に囲まれながらの、ヘビーな出来事の数々がある場所でした。
東京は狭いので事件事故災害の上に成り立っている土地ですが、事が大きいだけに目立ちますね。
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