【江東区】豊洲公園
2023年10月28日豊洲公園にいってまいりました。
現在の地図
この時は暑くて半袖でも十分なほど。
豊洲公園は一部釣りができるということで釣りをしてみましたが、餌無しの釣り針だったのでなにも釣れませんでした。
公園の遊具はいろいろなバリエーションがあり娘も楽しんでいましたし、食事はららぽーとの一階が広大な食事所となっているので便利です。
ファミリー向けですね。
公園の遊具では発見がありました。
娘が小さかったころは筋力不足で遊具をうまく遊べないだけだと思っていましたが、小学生になり筋力はかなりついたにも関わらず相変わらずな様子をみて、センスなんだと気が付きました。
それにしても子供が大きくなるのはあっという間で、とくに幼稚園に入る前は私もヒマだったのでよく公園は行った思い出があります。
東京時層地図で周辺を回り始めたころはオムツ持参で行っていたもんなと、おセンチなことを豊洲公園の遊具で感じました。
ガスてなーにの建物前の広場では東京味わいフェスタ2023というイベントがやっており、大方そこで過ごしました。
暑かったのでかき氷が美味しかったです。
明治時代初期
現在地は予想通りに海の中。
北西に見えているのが石川島監獄所です。
明治時代後期
現在地も依然として海の中。
石川島近辺は埋め立てが始まっているようで、越中島には商船学校、水産講習所ができています。
商船学校はのちに東京海洋大学になります。現在ここの敷地にある明治丸は明治天皇が明治9年に北海道巡幸のさいの御召し船として使用され、横須賀に戻ってきた7月20日が海の日として制定。
大正時代 関東大震災前
月島、越中島から南下するように埋め立ては進んでいます。
昭和初期戦前
○豊洲あたりの埋め立ては昭和初期には出来上がっていたのですね。
昭和12年 1937年
名称は豊洲。埋め立て地として思ったより歴史がある場所でした。
名前からして戦後かとおもっていました。
関東大震災後の瓦礫を使ったのかなとおもいますがどうでしょうか。
○豊洲4丁目にはこの時期
田中航空研究所があります。
いろいろと検索した結果、田中不二雄さんという方が作ったものではなかろうかと・・・
「昭和8年に須崎の埋め立て地に田中飛行研究所を建てた」
という記事をみつけました。場所と名前はちがいますが年代は一緒。
田中不二雄の妻は航空映画にも出ていた西村阜子さん。女優と数少ない女性飛行士の二刀流ということで注目されたようです。出典も2006年に森田正さんというヘリコプター会社の社長さんが書かれた本一冊のみ
○現在の都立大晴海キャンパス付近に新月島公園も出来上がっています。
1955年 高度成長前夜
戦後、空き地から工業地帯へと変化します。
豊洲だけでいうと
石川島重工業第三工場
石川島重工業第二工場
石炭置き場
旭豊洲倉庫
巴組鉄工所
日清製粉豊洲工場
豊洲木材工場
豊洲は学校と病院もあるのでここで働く人達が通っていたとおもわれます。
現在の新豊洲は
東京火力発電所
東雲は
三菱鋼材深川工場
日東紡績東京工場
貨物線も引かれていました。
1990年代 バブル期
今は豊洲近辺は郊外型ショッピングモールとベッドタウンというかんじですが、この時期はガス工場、火力発電所、工業地帯ですね。
私が釣りをしていた場所は石炭埠頭とよばれていた場所です。
景色は変わるものです。
そういえば築地移転にあたって東京ガス豊洲工場跡での土壌汚染問題があったのを思い出しました。
ちなみにこの辺りの水域の居付きのクロダイやシーバスは臭くて食べられないとのこと。
たしかにちょっと南の東京湾のシーバスは小さくても臭かったです。
90年代は工業地帯だったことを考えると、それもさもありなん。
釣った魚は食べたいのでハゼなどは食べていますが、地図的にみるとあまり良くないのかな。
まあ、直ちに影響があるわけでないところがなんともですが。
実際には水銀に関しては大型の魚類が一番多いですが、そう考えるとこの辺りで釣った魚を一年に数回食べるというのは果たしてどのくらい身体に影響があるかどうか。
体感的に明治生まれの祖父の世代よりも、昭和生まれの伯父伯母の世代のほう短命なんですよね。これは大気汚染や農薬やその他いろいろ、現代で生活している中では逃れられないものだとおもうので、結局のところ、偏食を控えて多くの食品をバランスよくという誰もが知っている結論となります。
ここまで書いていて、三井住友トラスト不動産さんの豊洲の記事があったことを発見しました。なるほどやはり関東大震災の瓦礫でできているのと、昭和初期の空白地は軍の施設があったのか。
https://smtrc.jp/town-archives/city/tokyo-bay/p06.html
豊洲はなかなか興味深い場所でした。