【千代田区】呉服橋近辺
皇居の東御苑からカラオケに行こうと探したところ、東京駅をこえた所にあるようなので行ってみました。
道中、呉服橋という名前の交差点がありました。
ここも江戸三十六見附だったのではないかとおもい、東京時層地図を開いてみることにしました。
ちょっと地図を寄りすぎて周辺が見えなくなったのでちょっと引いた地図で東京時層地図をみてみたいとおもいます。
場所はすこし東京駅側に戻ってこのあたりです。
まずは現代版
現在地は東京鎮台歩兵営 南の東京駅の側は法学校と監獄署 北は陸軍倉庫と会計監査院 さらに北は印刷局製造所
江戸時代はなにがあったかというと、1855年頃の地図では大名屋敷があり
東京鎮台の場所は細川越中守 松平伊豆守 秋元但馬守 北町奉行所 井戸対馬守覚広 の屋敷
法学校は松平丹波守 監獄署は水野壱岐守
北の陸軍倉庫は間部下総守 太田摂津守 印刷局製造所は松平越前守
大名屋敷と町のコントラストがあざやか。
考えてみたら北町奉行所、遠山の金さんのお膝元か。
呉服橋をでたらすぐに華のお江戸の八百八町 すぐに潜入調査できそうなところもお話作りやすいですね。
こちらの写真は明治4年の旧江戸城写真帖 呉服橋を内側から取った写真。おそらくは北町奉行所跡から写真を撮っていると思われます。
左奥に鍛冶橋が見えるます。明治9年以降の地図には右の渡櫓は消えていますが交互に見比べると符合する場所にテンションがあがります。今は跡形もないのは残念ですね。
続いて明治後期の地図に行ってみましょう。
東京鎮台、法学校、監獄などいろいろとあった場所はなんにもなくなってしまいました。呉服橋の枡形門も取り壊されています。
大正3年に東京駅ができるのでその前段階といったところでしょう。
北側の印刷局はなにか形がかわったようにみえます。明治初期とくらべると増築でもしたような。大正時代の地図の印刷局に近い写真です。
東の常盤橋からの浮世絵もなかなかカッコよい 石造りの橋と枡形門の石垣と印刷局の赤レンガの3重奏だ。やるなぁ
続いて大正時代関東大震災前 1914年大正3年に東京駅ができます。
町名は銭瓶町。銭瓶橋があったことに由来します。
もう呉服橋は普通の橋になってしまいました。写真もいずれ探したいとおもいます。
堀は城辺河という名称です。常盤橋の枡形門の石組もこの時代は残っているようです。
この時代、一般的な移動手段としては都電が用いられていたようで、車は普及していません。
東京駅の東には鉄道省ができました。大正9年 1920年設置 写真は探したけれど見当たらなかったので宿題です。
昭和初期戦前 昭和10年くらいの地図とおもわれます。
印刷局は逓信省になりました。逓信省は郵便、通信、運輸を管轄する省庁。めちゃくちゃ利権がデカそうです。
逓信省といえば
元総理大臣の小泉純一郎の祖父、小泉又二郎 横浜港湾一の手配師を出発点に逓信大臣まで上り詰めた男。ちょうど昭和戦前のこのくらいの時期に通信大臣をやっていたとおもわれます。
続いては戦後1955年頃
戦後の高度経済成長期前夜にさらに堀の埋め立てを進たようです。
これにて呉服橋は完全消滅。
逓信省は戦後枝分かれして、郵政省、運輸省、通信省となりました。
それで逓信省の跡地は東京郵政局になっています。
1954年大丸が開店
バブル期1990年頃
なかなか変遷していました。また後程訪問して、北町奉行所跡や常盤橋門などの写真も撮りたいです。
この後、娘と二人でカラオケをしたのですが、3回ほど行った後に義母の小1にはカラオケは早すぎる!と鬼クレームが入ってカラオケは当分中止です。
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