【杉並区】大宮八幡
大宮八幡に行ってまいりました。
時期的に七五三が多くけっこうワチャワチャとした雰囲気でした。
神社の由緒によりますと
源頼義が康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建て息子の八幡太郎義家も父親にならって神社の改修や松を植えたとのこと。
さらには
おお、これぞ中沢新一さんの「古の聖域は人が移り変わっても現代の聖域である説」を地で行く場所。
清涼殿には縄文・弥生の展示もあるとのことでしたが、事前知識がなかったのでいけませんでした。
神社にはよく縄文弥生の遺跡が出てくるなとおもいつつも、縄文時代1万年、弥生時代1000年続いているのだから、近くに水源があって小高い丘を掘ればなにかしら出てくるんじゃないかなというのが最近の考えです。
現代の地図 2023年
神社もさることながら素晴らしいのがこの一帯の緑地。
宅地化されてもよさそうなところですが、それが和田堀公園という広大な公園になっているところに、この辺り一帯の価値を感じます。北には釣り堀もあって釣りも楽しめる不思議な公園になっています。(のちのち知りましたが宅地に適していなかった)
コイがいるのですが素人の私は餌をとられまくって終了。
コツは上、中層に針にかからない稚魚がいてエサを食べてしまうので、団子にして底に餌を落として食いついてくる成魚を狙うんだとか。
魚は毎日釣り人に釣られまくっているので、スレて難しい釣り場だそうです。
めちゃめちゃひなびた食事処もあり、夕暮れまで大人気。娘のリクエストでお汁粉と砂肝を食べました。
近くの運動場には体操器具もあったりと、休日を過ごすには絶好のスポットですね。
明治初期 1875年頃
○ 現在の和田堀公園は水田。
道理で現在も宅地がないわけだ。
宅地に適した土地は周辺に沢山あるからですね。
善福寺川は度々氾濫しているようで、それも影響しているようです。
和田堀公園に溜池があったとの記述があったのですが、この当時はないようです。
○ 大宮八幡の表参道は神社の真東から伸びていたことがわかります。
交通量の多い都道14号が表玄関だとおもっていたけれど本当はこちら。
参道にあたる部分に現在も「くろもん 大和田商店」という駄菓子屋さんがあります。
○ 江戸時代は神仏習合で神社には別当寺がついていたのですが、江戸時代の地図をみると、大宮八幡近辺はそれらが見られない。別当寺は明治維新とともに廃寺となった大宮寺だそうですが地図上では確認できませんでした。この時期の地図表記にある八幡祠というように、この当時はこじんまりとしていたものだったのだと想像します。
○ 明治5年に郷社
明治後期 1910年頃
○ 明治の末期になっても周りに人家がほとんどない。谷のある丘に神社の森がぽつんとある感じ。明治18年に府社に昇格していますのでここから神社の隆盛が始まるといったところでしょうか。
大正期 関東大震災前 1920年頃
○ 神社の北東に高商校という学校ができます。
高商校で検索すると東京高等商業学校→東京商科大学→一橋大学となるのかなとおもいきやさにあらず。
大正3年 1914年 高千穂高等商業学校を現在地に開校(私学としてはわが国最初の高等商業学校)ということでした
創設者は高知県出身の川田鉄弥さん(1873~1959)
現在は高千穂商科大学になっています。
初めは現在の新宿7丁目にあり、当時は高級住宅街、生徒は少人数制だったそうです。
評議員は渋沢栄一、三井総帥の団琢磨、元老の山縣有朋などの早々たるメンツのようでいったいどういった人脈を持っていたのでしょうか。
川田さんは東京帝大出身で東京専門学校(早稲田大学)講師をしていたようですが、人脈作りも上手かったのだとおもいます。
亡くなるまで幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と運営していたようですので教育者としても経営者としても天才肌だったのでしょう。
亡くなってからは跡目争いで学校は荒廃したとWikipediaには書かれていました。あるあるですね。
○ 荒玉水道路 この当時は南は玉川上水の所で止まっています。
昭和初期戦前 1935年頃
○ 関東大震災後、郊外には人口が流出しますが、周辺はそれほど増えていません。少し南の永福町あたりには住居が増えています。
○ 大正期にみられなかった溜池のようなものができています。
昭和8年 1933年に大宮八幡宮境内一帯とともに和田堀風致地区に指定ということなので、それなのでしょう。大きな池があって離れ島があるなんて庭園みたいで洒落ています。しかもかなりの大規模庭園。
さらにWikipediaによりますと
昭和9年 1934年に株式会社大宮八幡園(現・京急開発)が経営する娯楽施設「大宮八幡園」としてボート池、釣り堀等が整備された。
あの釣り堀は90年の歴史があったんだ!
釣り堀らしきものもある。
てっきり戦後のどさくさでなし崩しで営業している場所だと思っていました・・・
戦後高度成長前夜 1955年頃
○ 一見するところ人家がなさそうな場所でしたが、ここでも空襲で大宮八幡園の施設の大半が焼けてしまったそうです。
大宮八幡園は和田堀公園で競艇をやろうと計画していましたが頓挫して、平和島でボートレースを行う事になったようです。和田堀ボートレース場になった可能性もあるんだ。
その後、京急傘下となり京急開発へ。
なるほど、それで都立公園内でひなびた釣り堀が運営しているという不思議がわかりました。
働いている方々も皆さん若くて、うらぶれた設備とは裏腹だったのが印象に残っていましたが、案外しっかりとした所が運営していたんですね。
○ 1958年 昭和33年に狩野川台風がおこり、洪水被害があったことによって調整池をつくるようになったようです。その後も台風被害があったことから、調整池は範囲を広げて建設されているとのこと。都市機能の一翼を担っている重要な場所でもあります。
○ 戦後、大宮八幡宮は別表神社へと格上げ。別表神社は23区内で9社しかありません。
バブル期 1990年頃
○ 高千穂商大は敷地の三分の一を佼成学園に売却したようみえます。佼成学園は法華経系の立正佼成会が母体。立正佼成会は麻布にある特異な宗教施設が印象的な霊友会からの枝分かれ。
地図を見ていくと宗教図にも詳しくなってしまうという・・・
○ 神社の周辺にも住宅が増えました。
まとめ
ふらりと立ち寄ってみた大宮八幡でしたが地図をみると明治期には祠と表記されていた場所が今や東京のへそと名乗る神社へ。
これらは神社側の努力と周辺住民の方々の力によるものが多いのだと感じました。
神社とはそういうものかもしれません。
パワースポットだといって遠くの神社にいくのではなく、住居近くの神社を盛り立てる。それが本来の形なのかなと、いままでけっこう神社巡りをしていましたが初めてそう感じ、近所の神社を大切にしようと改めて思いました。
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